江戸無血開城

概要
勝海舟と西郷隆盛の会談により、100万都市が戦火を免れた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(2)
勝海舟1823年–1899年 · 旧幕府側西郷隆盛1828年–1877年 · 新政府側本文
慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は、軍艦で江戸へ逃げ帰った。フランス公使ロッシュや一部の幕臣は抗戦を説いたが、慶喜はこれを退け、2月には上野の寛永寺に入って謹慎した。朝廷に逆らう意思は無いと示すためである。だが新政府は慶喜追討の命令を取り消さなかった。東征大総督に有栖川宮熾仁親王が任じられ、西郷隆盛がその参謀として、東海道・東山道・北陸道の三方から江戸へ軍を進めた。総攻撃の日は3月15日と決められた。
旧幕府の側で後始末を任されたのが、陸軍総裁の勝海舟だった。勝は、江戸が攻撃されれば市街戦になり、100万の人が住む町が焼けると考えた。同時に、内戦が長引けば、新政府を支えるイギリスと旧幕府に近いフランスがそれぞれの側について介入し、国が割れる恐れもある。

勝はまず、旗本の山岡鉄舟を駿府にいた西郷のもとへ送った。山岡は、薩摩藩士の益満休之助を案内に立てて新政府軍の陣中を通り抜け、3月9日、西郷に会った。西郷は降伏の条件として七つの項目を示した。江戸城の明け渡し、軍艦と武器の引き渡しなどである。山岡はほとんどを受け入れたが、慶喜の身柄を備前藩に預けるという一項だけは拒んだ。もし立場が逆で、あなたの主君である島津公が同じことを求められたら、あなたは呑めるか、と迫ったという。西郷はこの一項について、自分が預かると答えたと伝えられる。
3月13日と14日、江戸の薩摩藩邸で、勝と西郷が直接会った。勝は、慶喜を水戸で謹慎させること、江戸城を明け渡すこと、軍艦と武器は後で処置を決めることなどを申し出た。慶喜の助命と徳川家の存続が、その前提だった。西郷は自分一人では決められないとして、翌日の総攻撃を取りやめ、駿府、さらに京へ戻って新政府の首脳と協議した。

勝は後年、交渉が決裂した場合に備えて、江戸の町に自ら火を放って新政府軍の進撃を阻み、町の人々は火消しの頭たちに手配させた舟で逃がす策まで用意していた、と語っている。どこまで実際に準備されていたのかは分からないが、勝が最悪の場合も考えて交渉に臨んでいたことはうかがえる。
交渉の背後では、ほかの力も働いていた。13代将軍家定の妻だった天璋院篤姫は薩摩の島津家の出身で、14代将軍家茂の妻だった和宮は孝明天皇の妹である。二人はそれぞれ、薩摩と朝廷に宛てて、徳川家を存続させてほしいと訴える手紙を送った。

さらに、イギリス公使パークスの意向もあった。新政府軍の参謀の一人が、戦いに備えて負傷兵の手当てへの協力を頼みに横浜のパークスを訪ねると、パークスは、恭順している者を攻めるのは国際法に反する、と強く反対したとされる。この話が西郷に伝わり、攻撃の中止を後押ししたという。ただし、これがどれほど西郷の判断を左右したのかについては、研究者の間でも見方が分かれる。
4月11日、江戸城は新政府に明け渡された。同じ日、慶喜は寛永寺を出て、謹慎先の水戸へ向かった。家康が江戸に入ってから270年あまり、徳川の城だった江戸城は、一発の砲声もなく主を替えた。徳川家は、田安家の幼い亀之助(後の徳川家達)が継ぎ、駿府に70万石を与えられて存続することになった。かつての800万石から見れば、10分の1以下である。
だが、江戸の全員がこれに従ったわけではない。旗本や御家人の一部は、上野の寛永寺に立てこもって彰義隊を名乗り、新政府に抵抗した。5月15日、新政府軍は大村益次郎の指揮で上野を攻め、最新の大砲も使って一日で彰義隊を壊滅させた。海軍副総裁の榎本武揚は軍艦の引き渡しを拒み、8月に艦隊を率いて江戸を脱出した。戦争は東北の会津戦争、そして箱館へと続いていく(箱館戦争の終結)。

江戸はこの年の7月に東京と改められ、秋には明治天皇が江戸城に入った。城は皇居となり、町は新しい国の首都になった。100万の町が焼けずに残ったことで、江戸の町割りや人々の暮らしは、そのまま東京へと引き継がれた。勝と西郷の会談は、後に美談として語り継がれ、会談の地には記念の碑が建てられている。
二人の縁は、この4年前にさかのぼる。1864年、幕府の軍艦奉行だった勝は大坂で初めて西郷に会い、幕府にはもはや国を治める力が無い、諸藩の力を合わせて国を立て直すべきだ、と語った。幕臣の口から出た言葉に西郷は驚き、大久保利通への手紙に、勝にすっかり惚れ込んだという趣旨を書いている。敵味方に分かれた後も、互いを信じられる相手だったことが、交渉をまとめる下地になったといわれる。西郷が西南戦争で死んだ後、勝は西郷の名誉の回復に力を尽くし、私費で西郷をしのぶ碑を建てている。