奥羽越列藩同盟
概要
会津と庄内の赦免を求めた東北の藩が、白石に集まり、拒まれて同盟した。31藩。「東北の独立政権」と見る人もいる。半年で崩れ、会津が落ち、庄内が降った。
場所
38.00°N 140.62°E · 宮城県
本文
1868年(慶応4年)1月、京都の南の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府の軍が敗れると、新政府は前の将軍徳川慶喜を追討の対象とし、あわせて会津藩と庄内藩を「朝敵」とした。会津藩主の松平容保は、京都守護職として長く尊王攘夷の志士を取り締まり、長州の恨みを買っていた。庄内藩は、江戸の市中を取り締まる役にあたり、前の年の暮れに江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしていた。新政府は東北の大藩である仙台藩と米沢藩に、会津を討つよう命じた。
仙台藩と米沢藩は、すぐには動かなかった。同じ東北の藩どうしで戦う理由は乏しく、会津が恭順の意を示しているのなら、戦わずに許しを得る道を探るべきだと考えたのである。3月、公家の九条道孝を総督とする奥羽鎮撫総督府の一行が仙台に入った。実際に采配を振るったのは、下の参謀に就いた長州の世良修蔵と薩摩の大山格之助だった。世良らは東北の藩に出兵を強く迫り、その居丈高な態度は仙台藩の人々の怒りを買った。一方、江戸の城は4月11日に戦わずに明け渡され、旧幕府への総攻撃は避けられていた。

閏4月11日(西暦では6月1日)、仙台藩の白石城に、東北の14の藩の重臣たちが集まった。彼らは、会津と庄内の罪を寛大に扱ってほしいという嘆願書をまとめ、総督府に差し出した。だが嘆願は、世良らの意見で退けられた。そのころ、世良が同僚の大山に宛てて書いた手紙を、仙台藩の者が手に入れた。そこには、奥羽をすべて敵と見て攻めるべきだ、という趣旨のことが書かれていたと伝えられる。閏4月20日、福島の宿にいた世良は、仙台藩士らに捕らえられ、斬られた。同じ日、会津藩の兵は、東北の入口にあたる白河の城を押さえた。もう後戻りはできなかった。
5月3日、東北の25の藩が、会津と庄内を救うための同盟の盟約に加わった。さらに長岡藩や新発田藩など北越の6藩が加わり、31の藩による奥羽越列藩同盟が生まれた。盟約書は、大義を天下に伸べること、公の議論を重んじて私心を去ることなどを掲げた。白石には公議府と呼ばれる会議の場が置かれた。6月には、上野の戦いを逃れた皇族の輪王寺宮が東北に入り、のちに同盟の盟主に迎えられた。

この同盟が何であったかについては、見方が分かれている。輪王寺宮を天皇に立てる動きがあったという話も伝わり、京都の新政府に対抗する、もう一つの政権を東北に作ろうとしたと見る人がいる。新政府が薩摩と長州の私の政府にすぎないという批判を込め、諸藩の話し合いで国を動かそうとした点に、新しい政治の芽を見る研究者もいる。一方で、輪王寺宮の即位については確かな史料が乏しく、同盟の実態は、会津と庄内を救うための、足並みのそろわない軍事同盟にすぎなかったとする見方も強い。
戦いは、白河から始まった。閏4月25日、新政府軍の最初の攻撃は退けられたが、5月1日、白河の城は新政府軍に奪われ、同盟の軍は大きな損害を出した。同盟側はその後、7月まで白河の奪い返しを試み続けたが、果たせなかった。最新の銃と大砲をそろえた新政府軍に対して、同盟の側は装備も指揮もまちまちだった。北越では、長岡藩の家老河井継之助が、ガトリング砲まで備えた藩兵で新政府軍を苦しめたが、7月の末、長岡の城は再び落ち、河井は傷がもとで間もなく亡くなった。
同盟は内側から崩れていった。7月、秋田藩は、同盟への協力を求めに来た仙台藩の使者を斬り、新政府の側に移った。周りの小さな藩もこれに続いた。7月29日には、二本松の城が落ちた。二本松藩は、10代の半ばの少年たちまで戦いに出し、多くが命を落とした。8月23日、新政府軍は会津の若松の城下に攻め込んだ(会津戦争)。米沢藩は9月4日に、仙台藩は9月15日に降伏した。9月22日、1か月の籠城の末に会津藩が降伏し、庄内藩もその数日後に降った。白石での盟約から、わずか5か月ほどのことだった。旧幕府の海軍を率いた榎本武揚らは、仙台の沖から北へ逃れ、箱館に拠って翌年まで戦うことになる(箱館戦争の終結)。

戦いのあと、同盟に加わった藩は重い処分を受けた。仙台藩は62万石から28万石に減らされた。会津藩は領地を取り上げられ、翌年、家名を残すことを許されたものの、下北半島などの寒冷な土地に3万石の斗南藩として移された。実際に取れる米はその数分の一にすぎず、移った人々は厳しい冬と飢えに苦しんだ。
「白河以北一山百文」という言葉がある。白河の関より北の土地は、山一つが百文の値打ちしかない、という意味で、戊辰戦争のあと、勝った側が東北を見下して言った言葉だと伝えられる。出所ははっきりしないが、東北の人々は長くこの言葉を忘れなかった。盛岡藩の家に生まれた政治家の原敬は、「一山」を自分の号とした。1897年に仙台で創刊された新聞は、この言葉への反発を込めて「河北新報」と名付けられた。白河の北、という意味である。負けた側の記憶が、誇りの名として残されたのである。