人物

佐久間象山

Sakuma Shōzan
AD1811年3月22日 – AD1864年8月12日(享年53)
日本重要度 4

概要

松代藩士。「東洋道徳、西洋芸術」。大砲を鋳て、電信を試し、勝海舟と吉田松陰と坂本龍馬を教えた。松陰の密航に連座して9年蟄居し、出てきて開国を説き、京で河上彦斎に斬られた。

所属

日本

本文

佐久間象山は1811年3月22日、信濃の松代藩の下級藩士の家に生まれた。号の象山は、地元では「ぞうざん」と読まれるが、本人は「しょうざん」と名のったとも言われ、読み方はいまも定まらない。幼いころから学問に秀で、自分の才を誇って人と衝突することも多かった。天才と傲慢は、生涯にわたって彼について回る評判になる。

佐久間象山
佐久間象山Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1833年、象山は江戸に出て、当時の儒学の大家、佐藤一斎に学んだ。1839年には江戸の神田に塾を開き、朱子学を教えていた。転機は1842年に来た。主君の松代藩主真田幸貫が、幕府の老中として海の守りを担う役に就いたのである。その年、隣国の清がイギリスとのアヘン戦争に敗れたという知らせが日本に届いていた。象山は幸貫の命で西洋の事情を調べ、海防の策をまとめて上申した。そして、西洋の大砲の技術を、伊豆韮山の代官江川英龍に学んだ。

象山はやがて、西洋の学問を本当に知るには、自ら原書を読まなければならないと考えるようになった。30代になってからオランダ語を学び始め、わずかな期間で読みこなせるようになった。オランダ語に訳された百科事典を手がかりに、ガラスを作り、薬を調合し、大砲を鋳造した。1849年ごろには、松代で電信の実験を試みたとされる。ペリーが日本に電信機を持ち込む(黒船来航)数年前のことである。もっとも、彼の作った大砲が試し撃ちで破裂し、見物人から笑われたという話も伝わる。

黒船来航に関わる図版:UB Maastricht - Heine 1856 - Perry Commissionarissen
黒船来航Wikimedia Commons Wilhelm Heine · Public domain

1851年、象山は江戸の木挽町に砲術と西洋の学問を教える塾を開いた。ここに、のちに幕末と明治を動かす若者たちが集まった。勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内、河井継之助らが、象山の教えを受けている。翌年、象山は勝海舟の妹の順子を妻に迎えた。

1853年、ペリーの艦隊が浦賀に現れると、象山は弟子たちを連れて浦賀へ様子を見に行った。翌1854年、弟子の松陰がペリーの船に乗り込んで海外へ渡ろうとし、失敗して捕らえられた。松陰の荷物から、象山が彼の門出を励まして贈った詩が見つかり、象山も罪に問われた。牢に入れられたのち、郷里の松代で蟄居を命じられ、それは9年に及んだ。

佐久間象山遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル)
佐久間象山遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル)Wikimedia Commons Mariemon · CC BY 3.0

蟄居の間、象山は『省諐録』という書を書いた。その中で彼は、東洋の道徳と西洋の芸術(技術)、という言葉を記している。心の拠り所は東洋の学問に置きながら、技術は西洋から余さず学ぶべきだ、という考えで、のちの「和魂洋才」という言い方の先駆けとされる。同じ書で、20歳を過ぎて自分が一つの藩に関わる身だと知り、30歳を過ぎて天下に、40歳を過ぎて世界全体に関わる身だと知った、と自らの歩みを振り返っている。清の学者魏源が西洋の事情をまとめた書を読み、海を隔てて同じことを考えた人がいると喜んだことも書き留めた。

1862年に赦された象山は、1864年、幕府の求めで京都に上った。京都は、外国を打ち払えと叫ぶ尊王攘夷の志士たちの熱気に満ちていた。象山は、朝廷と幕府が手を結んで国を開くべきだと説き、公家や一橋慶喜の間を説いて回った。洋式の鞍を置いた馬に乗って堂々と都を行く象山の姿は、攘夷派の目には、西洋かぶれの開国論の頭目と映った。天皇を彦根へ移そうとしているという噂まで流れた。

1864年7月11日(陰暦)、象山は三条木屋町の近くで、熊本藩出身の河上彦斎らに襲われ、斬り殺された。53歳だった。この年の京都では、池田屋の事件(池田屋事件)や禁門の変が相次ぎ、暗殺の嵐が吹き荒れていた。象山の死後、息子の恪二郎は父の仇を討つために新選組に加わったが、望みを果たすことはできなかった。

禁門の変に関わる図版:Hamaguri rebellion
禁門の変Wikimedia Commons Yūzan Mori · Public domain

象山は、自分が死ねば日本の進歩は遅れるとまで言い放った自信家だったと伝えられ、弟子の勝海舟でさえ、その学識を認めつつ、自慢の強い、ほら吹きの気味がある人だったと回想している。それでも、象山の塾で西洋に目を開かれた若者たちが、やがて国を開き、新しい時代を作っていった。彼は明治の世を見ることなく倒れたが、その思想は弟子たちの中で生き続けた。

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