高杉晋作
概要
身分を問わない奇兵隊を作り、長州を討幕へ転じさせた。倒幕を見ずに27歳で病死。
所属
長州藩関わったできごと(2)
四国艦隊下関砲撃事件1864年9月5日(元治元年8月5日) · 講和交渉第二次長州征討1866年 · 長州側本文
高杉晋作は1839年、長州藩の城下町萩で、家禄200石の藩士高杉小忠太の長男として生まれた。高杉家は藩主の側近を務めることもある上級の家で、一人息子の晋作は大事に育てられた。藩校明倫館に学んだが、型どおりの学問にはなじめなかった。1857年、親の反対を押して、近所の吉田松陰の松下村塾に通い始めた。松陰は、晋作の負けん気の強さを見抜き、同じ塾生の久坂玄瑞と競わせることで才を伸ばした。二人はやがて塾の双璧と呼ばれる。

1858年、晋作は江戸に出て幕府の学問所昌平黌で学んだ。翌年、安政の大獄で江戸に送られた松陰が獄中にいる間、晋作はその世話を焼いたが、藩命で萩へ帰る途中で、松陰の刑死を知った(吉田松陰の刑死)。師の死は、晋作に深い衝撃を与えた。
転機になったのは、1862年の上海への渡航だった。幕府が貿易の調査のために上海へ送った船に、藩の命で乗り組み、2か月ほど滞在した。上海は太平天国の乱の戦火の中にあり、町はイギリスやフランスの兵に守られていた。租界では、清の人々が外国人に使われ、道を譲っている。大国の清でさえ、こうなるのか。晋作は日記に、日本も同じ道をたどりかねないと書き残した。外国を打ち払う攘夷を唱えながらも、外国の力を知り、それに対抗できる軍と国の仕組みが要るという考えは、この時に固まった。

帰国後、晋作は過激な行動に走った。1862年の暮れには、仲間とともに、江戸の品川御殿山に建設中だったイギリス公使館を焼き打ちした。藩の上層部とぶつかり、翌年には頭を丸めて東行と名のり、一時は隠遁を宣言している。
1863年5月、長州藩は、朝廷と約束した攘夷の期限が来たとして、下関の海峡を通る外国船を砲撃した。翌月、アメリカとフランスの軍艦が報復に来て、長州の砲台と軍艦はあっけなく打ち破られた。藩に呼び戻された晋作は、下関の防備を任されると、身分を問わず志願者を集めた部隊を作った。奇兵隊である。藩士の正規の軍を正兵とすれば、それとは別の奇兵、という意味だった。下関の豪商白石正一郎の屋敷を本拠に、武士だけでなく、農民や町人、猟師、僧侶までが加わった。身分ではなく力量で人を用いる、という考えは、生まれの身分の低い山県有朋らにとって、世に出る道を開いた。晋作自身は、隊員と藩士との衝突事件の責任を取って、まもなく総督を退いている。
1864年、長州は追い詰められた。7月、藩の兵が京都に攻め上って敗れ(禁門の変)、朝敵とされた。8月には、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四か国の艦隊が下関を砲撃し、砲台は占領された(四国艦隊下関砲撃事件)。藩は講和の交渉役に晋作を選んだ。晋作は家老の養子と称して、烏帽子に直垂という古風な装束で、イギリスの艦に乗り込んだ。賠償金の支払いを求められると、攘夷は幕府の命令に従っただけだとして、賠償は幕府に求めよと押し返した。後年、通訳を務めた伊藤博文は、このとき晋作が、下関の彦島を貸してほしいという要求を、古事記の神話を延々と語って煙に巻き、拒み通したと語っている。ただ、この話は伊藤の晩年の回想によるもので、確かめられてはいない。

幕府が長州を攻めようとすると、藩内では、幕府に恭順して謝罪すべきだという一派が実権を握った。京都の戦いを主導した家老たちは切腹させられ、晋作のような急進派は命を狙われた。晋作は九州へ逃れ、福岡の歌人野村望東尼の山荘にかくまわれた。
1864年の暮れ、晋作は長州に戻り、下関の功山寺で兵を挙げた。従ったのは、伊藤博文の率いる力士隊など、80人ほどにすぎなかった。奇兵隊をはじめとする諸隊の多くも、はじめは様子を見ていた。晋作は下関の藩の役所を襲って資金と物資を押さえ、それを見た諸隊が次々に加わった。翌年の初めには藩の正規軍との戦いに勝ち、恭順派を追い落として、藩の方針を幕府と対決する方向へ覆した。勝ち目の薄い賭けに出て、実際に勝ったのである。こうして藩を代表する立場に戻った木戸孝允のもとで、長州は薩摩との同盟へ進んでいく(薩長同盟)。

1866年、幕府は再び長州を攻めた(第二次長州征討)。晋作は海軍の指揮を執り、小さな蒸気船で夜の海を走って、周防大島の沖に停泊していた幕府の艦隊に奇襲をかけ、関門海峡を挟んだ小倉口の戦いでも、兵を率いて九州側に渡った。四方から攻め込んだ幕府の軍は各地で敗れ、将軍家茂の死をきっかけに兵を引いた。幕府の権威は大きく損なわれた。
しかし晋作の体は、すでに肺結核に冒されていた。戦いの後、病の床につき、看病した野村望東尼と、愛人のおうのに見守られて、1867年、下関で死んだ。満27歳だった。大政奉還の半年前のことである。辞世として伝えられる「おもしろき こともなき世を おもしろく」に、望東尼が「すみなすものは 心なりけり」と下の句を付けたという。ただし、この上の句が死の床で詠まれたものかどうかには疑問もある。

晋作は三味線を好み、都々逸を作り、遊びも派手だった。拳銃を坂本龍馬に贈ったとも伝えられる。伊藤博文はその人柄を、動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし、と碑文に記した。藩の上級の家に生まれながら、身分を超えた軍を作り、わずかな手勢で藩の行き先を変え、新しい時代を見ないまま世を去った。