橋本左内
概要
福井藩医の子で、15歳で『啓発録』を書いた。緒方洪庵に学び、春嶽の側で一橋慶喜を将軍にと動き、安政の大獄で斬られた。25歳。西郷が生涯、彼の手紙を持ち歩いた。
所属
日本関わったできごと(1)
安政の大獄1858年 · 斬られた本文
1834年、越前福井藩の藩医・橋本長綱の長男として、福井の城下に生まれた。名は綱紀、左内は通称である。幼い頃から学問を好み、藩の儒者のもとで漢学を学んだ。

数え15歳の1848年、彼は自分を戒める文章『啓発録』を書いた。稚心(子どもっぽい心)を去る、気を振るう、志を立てる、学に勉める、交友を択ぶ、という五つの項目からなる。甘えや遊びを断ち、恥を知って奮い立ち、目指すところを定め、師と友を選べ、と自分に言い聞かせている。少年が書いた修養の文章として、後世まで読み継がれ、今も福井の学校で教えられている。
1849年、大坂に出て、緒方洪庵の適塾に入った。適塾はオランダ語の医学書を読む蘭学の塾で、全国から若者が集まっていた。左内はここで西洋の医学と学問に触れた。洪庵が彼を「池の中の蛟龍(いずれ天に昇る竜)」と評した、と伝えられる。1852年に父が病に倒れたため福井に帰り、家を継いで藩医となった。
1854年、黒船来航の翌年、左内は江戸に出て、蘭学者の杉田成卿らに学んだ。この江戸の日々に、水戸藩の藤田東湖や、薩摩藩の西郷隆盛らと知り合った。西郷は左内より6歳年上だったが、初めは若く色白の左内を軽く見ていたという。だが語り合ううちにその見識に驚き、深く敬うようになったと伝えられる。

藩主の松平春嶽(慶永)は、左内の才を見込んだ。1856年、左内は藩の学校・明道館の運営を任され、洋学を取り入れて改革を進めた。翌1857年には江戸に呼ばれ、春嶽の側近として政治の舞台に立つことになる。まだ23歳だった。
この頃、幕府は二つの難題を抱えていた。一つは、アメリカの総領事ハリスが求める通商条約である(日米修好通商条約)。もう一つは、病弱で子のない13代将軍・徳川家定の跡継ぎをどうするかだった。春嶽や薩摩の島津斉彬らは、水戸の徳川斉昭の子で聡明と評判の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を推した。これに対し、彦根藩主の井伊直弼らは、血筋の近い紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)を推した。

左内は一橋派の中心で働いた。1858年、京に上り、公家たちのもとを回って、慶喜を跡継ぎにするよう朝廷から幕府へ働きかけてもらおうとした。西郷も同じ目的で京にいて、二人は連絡を取り合った。
左内の構想は、跡継ぎ問題の先にまで及んでいた。友人に宛てた手紙で、彼は、将軍のもとに春嶽や斉彬ら有力な大名を集め、身分にとらわれず人材を登用して政治を立て直すこと、西洋の技術を取り入れて国を富ませることを説いた。外交では、世界は遠からずイギリスとロシアの二大国の争いになる、日本はロシアと結んでイギリスに対抗し、周りの土地にも手を伸ばすべきだ、とまで論じている。その外交論の当否はともかく、20代前半の若者が世界の情勢を見渡して国の進路を描いていたことに、後世の人びとは驚いた。

だが政局は彼らの思い通りにならなかった。1858年4月、井伊直弼が大老になると、6月に勅許の無いまま通商条約に調印し、跡継ぎを慶福に決めた。抗議した春嶽は隠居と謹慎を命じられ、続いて井伊は、一橋派や条約に反対した人びとを次々に捕らえた(安政の大獄)。左内も1858年10月に屋敷を調べられて取り調べを受け、翌年10月、伝馬町の牢に入れられた。京で朝廷に働きかけたことが、幕府の政治に口を挟む重い罪とされたのである。
1859年10月7日、左内は伝馬町の牢で斬首された。満25歳だった。藩主の命で動いた陪臣に死罪は重すぎると見る者は多く、井伊の苛烈さを示す処刑として記憶された。同じ牢では、その20日ほどのちに長州の吉田松陰も処刑されている(吉田松陰の刑死)。翌1860年、井伊は江戸城の桜田門外で水戸の浪士らに殺される。

西郷は生涯、左内を忘れなかった。先輩では藤田東湖、同輩では橋本左内に心服している、と語ったと伝えられる。1877年の西南戦争で西郷が城山に死んだとき、その遺品の中に左内からの手紙があった、という話も伝わっている。
左内の墓は東京の南千住の回向院と、福井にある。福井市には左内公園があり、毎年、彼の『啓発録』にちなんで、15歳になった中学生が自分の志を書く行事が続けられている。もし生き延びていたら明治の政府でどんな役を担っただろう、と問われることの多い人物である。