八月十八日の政変
概要
薩摩と会津が長州を京都から締め出した。この遺恨が、のちの薩長同盟をより劇的にする。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
文久3年(1863年)の京都は、攘夷を唱える勢力の天下だった。中心にいたのは長州藩と、長州と結んだ三条実美ら若い公家たちである。この年の春には将軍徳川家茂が上洛し、朝廷の求めに応じて、5月10日を攘夷の期限と約束させられていた。期限の日、長州は下関海峡を通るアメリカの商船を砲撃している。
尊攘派の勢いはさらに増し、8月には、天皇が大和へ行幸して神武天皇の陵に参り、攘夷の親征を宣言するという計画が決まった。天皇自らが軍を率いて外国を討つという姿勢を示し、幕府を一気に追い詰める狙いである。
ところが、当の孝明天皇は、外国を嫌う点では誰にも劣らなかったが、幕府を倒すことも、自分が戦の先頭に立つことも望んでいなかった。過激な公家たちが自分の名で次々に勅を出すことに、強い不満を抱いていたとされる。
この天皇の意向をくみ取ったのが、薩摩藩と会津藩だった。薩摩は、生麦事件のあとイギリスとの戦いを控えて、長州主導の過激な攘夷には距離を置いていた。会津藩主の松平容保は、京都守護職として御所の警備を預かっていた。薩摩藩士の高崎正風が会津の藩士と接触して手を結び、皇族の中川宮朝彦親王を通して天皇の同意を取りつけた。

8月18日の深夜、会津と薩摩の兵が御所の九つの門を固めた。中川宮や、公武合体派の公家たちが参内し、大和行幸の延期と、三条実美ら急進派公家の参内の停止、長州藩による堺町御門の警備の解任が決まった。夜が明けて駆けつけた長州の兵は、門の内に入れなかった。両軍は門を挟んでにらみ合ったが、天皇の命令として退去を迫られ、長州は戦わずに引き下がった。
翌19日、三条実美をはじめとする7人の公家は、雨の中を長州の兵に守られて京都を落ちていった。「七卿落ち」と呼ばれる。

7人は三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉である。錦小路は長州で病没し、沢は但馬の生野で浪士たちの挙兵に担がれて敗れた。三条はのちに九州の太宰府へ移され、明治維新の後には太政大臣として新政府の最上位に座ることになる。長州は京都での政治の足場を一夜で失った。同じころ、大和行幸に呼応して大和で挙兵していた浪士たち(天誅組)は、後ろ盾を失って孤立し、まもなく鎮圧された。
天誅組は、公家の中山忠光を首領に、土佐の吉村寅太郎らが加わった一団で、政変の前日に大和の五条の代官所を襲っていた。行幸の先触れとなるつもりの挙兵が、一夜にして朝廷の方針とも食い違う反乱になってしまった。

政変のあと、孝明天皇は「これまでの勅は真意ではなかった」という趣旨を表明し、松平容保には信頼を示す宸翰(自筆の書状)を与えたとされる。会津藩はこれを誇りとし、のちに朝敵とされたときにも、自分たちこそ天皇の信任を得ていた証として大切に守った。
京都を追われた長州の不満は、翌年の禁門の変となって爆発する。

政変の後、京都では一橋慶喜・松平容保・島津久光ら有力な大名を朝廷の会議に加える「参与会議」が開かれた。だが、横浜の港を閉じるかどうかをめぐって慶喜と久光が激しく対立し、会議は数か月で壊れた。長州を追い出した側も、一枚岩ではなかったのである。そこで長州と戦ったのも、会津と薩摩だった。この時点で、薩摩と会津は味方であり、薩摩と長州は敵だった。
しかし数年のうちに、構図はひっくり返る。薩摩は長州と同盟を結び(薩長同盟)、慶応4年(1868年)、会津は薩長を主力とする新政府軍に攻められて籠城した(会津戦争)。共に御所を守った相手に攻められたことで、会津の薩摩に対する恨みはいっそう深くなったとされる。八月十八日の政変は、幕末の政局がいかに目まぐるしく組み替わったかを示す出来事であり、その組み替えが人々の心に残した傷の出発点でもあった。