できごと

日米和親条約

Convention of Kanagawa
1854年3月31日(安政元年3月3日)
重要度 5
ロシア帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジアアイヌモシリ1854年3月31日(安政元年3月3日)横浜
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概要

下田と箱館を開き、鎖国が終わった。対等な条約ではなく、以後の不平等条約の入口になる。

場所

横浜
35.44°N 139.64°E · 日本・神奈川県

関わった人(1)

マシュー・ペリー1794年–1858年 · 交渉

本文

1853年7月、アメリカのマシュー・ペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀の沖に現れ、大統領の国書を受け取るよう求めた(黒船来航)。幕府は国書を受け取り、返事は翌年にすると伝えた。ペリーは、来年はもっと多くの船で来ると言い残して去った。

黒船の騒ぎは、江戸の庶民のあいだでも話の種になった。上等の茶の銘柄「上喜撰」に蒸気船を掛けて、たった四杯(四隻)で夜も眠れない、と詠んだ狂歌はよく知られている。ただし、この歌は当時のものではなく、後から作られた可能性が指摘されている。

日米和親条約写P4
Wikimedia Commons 国立国会図書館ウェブサイト · CC BY 4.0

この間に、幕府の中心にいた老中の阿部正弘は、異例の手を打った。国書を訳して大名や旗本に示し、どう対応すべきか意見を求めたのである。意見書は、町人からのものも含めて700通を超えたとされる。それまで幕府は、政治は幕府だけが決めるものとして、大名にすら口を出させなかった。自分だけでは決められないと認めたことになる。この一手は、のちに朝廷や大名が政治に意見する道を開き、幕府の権威を揺るがすことにつながっていく。

1854年2月、ペリーは約束より早く、今度は7隻(のちに9隻)の艦隊で戻ってきた。艦隊は江戸湾の奥深くまで入り、江戸の町からも見えるほどのところに錨を下ろした。幕府は横浜村に応接所を建て、儒学者の林大学頭を代表に交渉に当たらせた。

「合衆国提督口上書」という、ペリーら三人の使節を描いた錦絵
「合衆国提督口上書」という、ペリーら三人の使節を描いた錦絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ペリーの側にも事情があった。アメリカの捕鯨船は、灯りの油を取るための鯨を追って北太平洋に多く出ていた(鯨油)。嵐で難破した船員が日本に流れ着くと、ひどい扱いを受けることがあった。また、蒸気船で太平洋を渡って中国と行き来するには、途中で石炭と水を積み込む港が必要だった。アメリカが欲しかったのは、まず寄港地と船員の安全であって、日本との貿易はその先の話だった。

交渉は1か月ほど続いた。幕府は通商の求めをきっぱりと断り、ペリーもそれ以上は強く迫らなかった。こうして1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約が結ばれた。伊豆の下田と蝦夷地の箱館の2港を開き、アメリカ船に薪や水、食料、石炭を供給する。漂流した船員を救い、手厚く扱う。下田にアメリカの役人を置くことができる。そして、日本がほかの国にアメリカより有利な条件を与えたときは、アメリカにも同じ条件を与える。この最後の取り決めは、アメリカだけが得をする一方的なものだった。

日米和親条約調印地横浜市中区日本大通(横浜港開港広場)
日米和親条約調印地横浜市中区日本大通(横浜港開港広場)Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

条約には、通商の取り決めは含まれていない。つまり、この時点で貿易はまだ始まっていない。それでもこの条約は決定的だった。外国の船を寄せつけないという原則が、いったん破られると、それは前例になる。イギリス、ロシア、オランダも、同じような条約を続けて結んだ。1855年のロシアとの条約では、千島列島の択捉島と得撫島のあいだに国境が引かれ、樺太は境を決めずに両国の人が住む土地とされた。いまに続く北方の領土の問題の出発点である。

もっとも、幕府はすでにその前から、外国船を追い払う方針を緩めていた。1825年の異国船打払令は、近づく外国船を砲撃して追い払えと命じていたが、1842年、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたと知ると、幕府はこれを改め、遭難した船には薪と水を与えて帰すように命じていた。和親条約は、その延長線上にあったとも言える。

アヘン戦争に関わる図版:Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843)
アヘン戦争Wikimedia Commons Edward Duncan · Public domain

交渉のあいだ、両国は贈り物を交わした。アメリカ側は、人が乗れる大きさの蒸気機関車の模型や電信機を持ち込み、応接所の近くに線路を敷いて走らせてみせた。幕府側は、力士に米俵を担がせて力を見せ、相撲を披露した。互いの国の力と文化を見せ合う場でもあった。

条約が結ばれた後、ペリーの艦隊が下田に停泊していたとき、長州の若い武士吉田松陰が小舟で旗艦に乗りつけ、アメリカへ連れていってほしいと頼んだ。ペリーはこれを断り、松陰は捕らえられた。外の世界を自分の目で見たいという若者の衝動は、5年後、彼を安政の大獄で刑死させることになる。

KaiIchiranzu1806
Wikimedia Commons 山村才助(Saisuke Yamamura, 1770-1807) · Public domain

1856年、条約にもとづいて、タウンゼント・ハリスが総領事として下田に着任した。条約の条文では、役人を置くのは両国のどちらかが必要と認めたとき、と読める英文と、両国が合意したとき、と読める和文とで食い違いがあったとされ、幕府は驚いた。ハリスは通商の条約を強く求め、1858年、大老の井伊直弼は天皇の許しを得ないまま日米修好通商条約に調印した。こちらは貿易を始めるだけでなく、日本に関税を自分で決める権利を認めず、日本にいる外国人を日本の法で裁けないとする、不平等な条約だった。

和親条約は、それ自体は控えめな約束だった。だが、ここから日本は外の世界との関係を、自分だけで決めることができなくなった。不平等な条約を改めるのに、日本はその後半世紀を費やすことになる。

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