日米修好通商条約
概要
勅許を待たずに調印した。関税自主権が無く領事裁判権を認める内容で、朝廷と諸藩の反発を招く。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(2)
井伊直弼1815年–1860年3月24日(安政7年3月3日) · 決断タウンゼント・ハリスAD1804年10月4日–AD1878年2月25日 · 総領事本文
1854年の日米和親条約は、下田と箱館を開き、薪水や食料を与えることを約束しただけで、商売は含まれていなかった。条約に従って1856年、タウンゼント・ハリスが初代総領事として下田に着き、玉泉寺に領事館を構えた。ハリスの目的は、次に通商の条約を結ぶことだった。
ハリスは粘り強く江戸行きを求め、1857年に江戸城で13代将軍家定に謁見した。老中首座の堀田正睦に対しては、世界の情勢を説いた。イギリスとフランスは清と戦っており(アロー戦争)、それが終われば艦隊を日本に向けるだろう。武力で押しつけられる前に、穏やかなアメリカと先に結んでおくほうが得だ、という論法である。交渉の実務は、幕臣の井上清直と岩瀬忠震が担い、条文はほぼまとまった。

ハリスは商人の出で、アジアで長く交易に携わった後に外交官となった。下田での日々は孤独で、病にも苦しんだことが、彼の日記(『日本滞在記』として知られる)から分かる。通訳のヒュースケンは、条約締結後の1861年、江戸で攘夷派の浪士に斬られて死んだ。ハリスの身の回りの世話をしたという下田の女性「唐人お吉」の物語は広く知られているが、多くは後世の小説や芝居で脚色されたものとされる。
ところが幕府は、調印の前に朝廷の勅許を得ようとした。反対の声を抑える後ろ盾にするつもりだったが、1858年春、堀田が自ら京へ上っても、孝明天皇は首を縦に振らなかった。天皇は外国人を嫌い、公家の間にも反対が強かった。勅許を得られないまま堀田は江戸へ戻る。

その直後の4月、彦根藩主井伊直弼が大老に就いた。6月、清がイギリス・フランスに屈して天津条約を結んだとの知らせが届き、ハリスは調印を急ぐよう迫った。井伊は勅許を待てと考えていたともいわれるが、交渉役の井上・岩瀬に、やむを得なければ調印してよいと含みを持たせた。6月19日、神奈川沖に停泊していたアメリカ軍艦ポーハタン号の上で条約が調印された。
中身は14か条と貿易章程から成る。神奈川・長崎・新潟・兵庫を順に開き(箱館はすでに開港済み)、江戸と大坂でも商売を許す。開港場には外国人の居留地を設ける。そして問題は二点あった。関税の率は条約で決めた別表に縛られ、日本が自分で変えられない。外国人が日本で罪を犯しても、日本の法ではなくその国の領事が裁く。和親条約で認めた片務的な最恵国待遇も生きており、どこか一国に与えた利益は自動的にアメリカにも及んだ。

幕府はこの年のうちに、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような条約を結んだ。合わせて安政の五か国条約と呼ばれる。
条約には、1872年以降、1年前に通告すれば改定を協議できるという条項もあった。廃藩置県の直後に欧米へ渡った岩倉使節団が、最初の目的の一つに条約改正の下交渉を掲げたのは、この期限が近づいていたからである。だが交渉は門前払いに近く、使節団は欧米の制度の視察に重心を移すことになった。

「勅許なし」の一点は、反対派に強い大義名分を与えた。折から将軍の跡継ぎをめぐって、紀州の徳川慶福を推す井伊らと、一橋慶喜を推す徳川斉昭らが争っていた。斉昭らが押しかけ登城して井伊を詰問すると、井伊は彼らを処分し、さらに反対派の公家・大名・志士を大規模に弾圧した(安政の大獄)。その報復が、2年後の桜田門外の変である。条約は「天皇の意思に背いて結ばれたもの」とされ、尊王と攘夷が一つに結びつくきっかけになった。
開港すると、生糸と茶が飛ぶように売れた。一方で、金と銀の交換比率が日本と海外とで大きく違ったため、外国人は銀を持ち込んで日本の金貨に替え、国外へ持ち出した。幕府は小判を小さく作り直してこれを止めたが、今度は物価が急に上がり、庶民の暮らしを圧迫した。攘夷の空気には、こうした生活の不満も混じっていた。

開港の場所も、条文通りにはならなかった。条約は神奈川を開くとしていたが、神奈川は東海道の宿場で、大名行列と外国人が行き交えば揉め事が起きる。幕府は街道から離れた入江の寒村、横浜に港と居留地を急いで造り、1859年にそこを開いた。各国の領事は条約違反だと抗議したが、商人たちは便利な横浜に集まり、やがて既成事実になった。兵庫の開港は、京に近いことを嫌う朝廷の反対で遅れに遅れ、実現したのは1868年の初めである。
1860年、条約の批准書を交わすため、幕府の使節がアメリカへ渡った。随行した咸臨丸には勝海舟や福沢諭吉が乗っていた。

不平等の解消には半世紀かかった。外務大臣陸奥宗光のもとで1894年に領事裁判権の撤廃が決まり(施行は1899年)、関税自主権が完全に戻ったのは1911年である。条約を改めるために、日本は憲法と法典を整え、「対等に扱うべき国」であることを示さなければならなかった。