神戸事件
概要
開港した神戸で、岡山藩の行列を横切った外国人を藩兵が槍で突き、隊長の滝善三郎が発砲を命じた。外国の軍が居留地を占拠。新政府は「攘夷はしない」と告げて、滝を切腹させた。外国人が立ち会った最初の切腹。
場所
34.69°N 135.19°E · 兵庫県
本文
兵庫の港は、幕府が欧米と結んだ条約で開くことになっていたが、京都に近いことを朝廷が嫌い、開港は何年も延ばされた。ようやく開かれたのは1868年1月1日(慶応3年12月7日)である。港の東、神戸村の浜には外国人の居留地が設けられ、各国の領事や商人、軍艦の水兵が出入りするようになった。
そのわずか数週間のうちに、国の主が変わりかけていた。京都では王政復古が宣言され、1月下旬には鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、徳川慶喜は大坂から江戸へ船で去った。ただ、新しい政府はまだ外国に自分たちを政府として告げておらず、外国の側からは、日本を誰が治めているのかがはっきりしなかった。
1868年2月4日(慶応4年1月11日)、新政府から西宮の警備を命じられた岡山藩の兵が、家老の日置帯刀に率いられて神戸の町を通った。三宮神社の近くで、行列の前を外国の水兵が横切ろうとした。大名の行列を横切ることは、当時の日本では許されない無礼とされていた。6年前の生麦事件も、同じ理由で起きている。

隊を率いていた滝善三郎が制止し、言葉が通じないまま揉み合いになって、滝は槍で相手を突いて傷を負わせた。水兵が拳銃を抜いたように見えたため、滝は兵に発砲を命じた。岡山藩の兵は、居留地の予定地にいた外国人たちに向けて銃を撃った。弾の多くは頭上を越えたとされ、死者は出なかったが、けが人が出た。
外国側の動きは速かった。イギリス公使パークスらは居留地の防衛を理由に、イギリス・アメリカ・フランスの兵を上陸させて岡山藩の兵を追い払い、神戸の中心を占領した。港にいた日本の藩の船も差し押さえた。日本の新しい支配者は外国人を打ち払うつもりなのか、と外国の代表たちは問いただした。
新政府にとっては、成り立って間もない時期の、最初の外交の危機だった。2月8日(1月15日)、公家の東久世通禧が神戸へ赴き、各国の公使と会った。東久世は、天皇が国を治めることになったこと、これまでの条約は守り、外国人を打ち払うことはしない、と告げた。新政府が外国に対して自らの立場を公式に伝えたのは、これが初めてである。
外国側は、発砲を命じた者を外国人の立ち会いのもとで処刑するよう求めた。新政府の中には、国内の攘夷派の反発を恐れる声もあったが、外国の承認を得ることが先だった。責任は滝善三郎一人が負うことになり、切腹と決まった。
3月2日(2月9日)の夜、兵庫の永福寺で、滝は切腹した。32歳だった。各国から7人の立会人が来た。その一人、イギリス公使館の書記官アルジャーノン・ミットフォードは、のちに『旧日本の物語』(1871年)にその場の様子を書き残した。滝は落ち着いた声で、神戸で外国人に発砲を命じたのは自分一人であり、その罪を負って腹を切る、立ち会う方々は見届けてほしい、と述べた。ミットフォードは、その静かさと作法の正確さを詳しく描いている。この記録は英語圏で広く読まれ、切腹という作法を欧米に伝えた最も有名な文章の一つになった。
滝の死で事件は収まり、外国の兵は引き揚げ、差し押さえられた船も返された。新政府は、攘夷の時代の振る舞いをした一人の侍を外国の前で死なせることで、条約を守る政府として受け入れられる道を選んだ。攘夷を掲げて幕府と争ってきた勢力が政府になったとき、最初にしたことの一つがそれだった。
同じ月の15日には、堺の港で土佐藩の兵がフランスの水兵を襲い、11人を死なせた。今度も外国の前での切腹が命じられ、20人のうち11人が腹を切ったところで、立ち会っていたフランスの艦長が残りを止めさせた。この堺事件は、のちに森鷗外が小説に書いている。明治の開国は、攘夷の気分が残る国内と外国とのあいだで、新しい政府が侍の命を差し出すところから始まった。