人物

孝明天皇

Emperor Kōmei
AD1831年7月22日 – AD1867年1月30日(享年35)
日本重要度 4

概要

外国を嫌い、条約の許可を拒み、攘夷を幕府に迫り、しかし幕府を倒す気はなかった。妹を将軍に嫁がせ、長州を憎み、慶喜を信じた。35歳で天然痘で急死。毒殺説がある。翌年、息子の名で王政復古。

所属

日本

関わったできごと(1)

和宮降嫁AD1862年3月11日(文久2年2月11日) · 兄

本文

孝明天皇は1831年、仁孝天皇の第四皇子として生まれた。名は統仁。1846年、父の死によって10代半ばで即位した。江戸時代の天皇は、政治の実権を幕府に委ね、御所の中で儀式と学問に生きる存在で、国の大事に口をはさむことはほとんど無かった。ところが即位の年、孝明天皇は幕府に、外国の船に備えて海の守りを固めるよう求める書状を出した。異国の船が日本の近海に姿を見せ始めていた頃である。

孝明天皇(明治天皇の父)の御影
孝明天皇(明治天皇の父)の御影Wikimedia Commons Koyama Shōtarō · Public domain

1853年、マシュー・ペリーの艦隊が浦賀に来航すると、幕府はこれを朝廷に報告し、大名たちにも意見を求めた。それまで考えられなかったことで、朝廷の発言力は一気に高まった。天皇は外国人を強く嫌い、神国日本の土地を異国人に汚させてはならない、と考えていた。外国を打ち払う「攘夷」こそが天皇の願いだった。

1858年、幕府の老中堀田正睦が、アメリカとの通商条約の許しを得るために京に上った。天皇はこれを拒み、条約に反対する公家88人が列をなして抗議する騒ぎも起きた。それでも大老の井伊直弼は、天皇の許しを得ないまま日米修好通商条約に調印した。怒った天皇は、幕府を通さずに水戸藩へ直接、幕府を批判する勅書を下した(戊午の密勅)。これが安政の大獄の引き金となり、多くの志士や公家が処罰された。1860年、井伊は江戸城の桜田門の外で暗殺された。

幕府は朝廷との関係を立て直すため、天皇の妹和宮を将軍徳川家茂に嫁がせたいと願い出た(和宮降嫁)。天皇はためらったが、幕府が数年のうちに攘夷を実行すると約束したことで、ついに許した。天皇は、幕府を倒すのではなく、朝廷と幕府が手を結んで外国に立ち向かう「公武合体」を望んでいた。

和宮降嫁に関わる図版:ちかこないしんのう
和宮降嫁Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1863年、将軍家茂が京に上った。将軍の上洛は200年以上ぶりのことだった。天皇は攘夷の祈願のため賀茂社などに行幸し、将軍はそのお供をした。幕府は攘夷の期限を5月10日と約束させられ、その日、長州藩は下関の海峡を通る外国の船を砲撃した。勢いづいた長州と、急進的な公家の三条実美らは、天皇が自ら大和へ出向いて攘夷を祈る行幸を計画し、それを倒幕の旗揚げにつなげようとした。しかし天皇自身は、急進派が自分の名で勝手に勅を出していることに不満を抱いていた。8月18日、会津藩と薩摩藩が御所の門を固め、長州藩と急進派の公家を京から追い出した(八月十八日の政変)。天皇はこれを喜び、自分の本当の意思はこちらだと述べた。

天皇は長州を憎み、京を守る会津藩主松平容保と、将軍の後見役の徳川慶喜を深く信頼した。1864年、長州藩が勢力を取り戻そうと兵を率いて京に攻め上り、御所の門の近くで戦った(禁門の変)。長州は朝敵とされ、幕府による長州征討が行われた。

禁門の変に関わる図版:Hamaguri rebellion
禁門の変Wikimedia Commons Yūzan Mori · Public domain

だが、攘夷はもはや現実のものではなかった。1865年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの艦隊が兵庫の沖に現れ、条約を認めるよう迫ると、天皇はついに条約に許しを与えた。ただし兵庫の港を開くことだけは認めなかった。外国を打ち払うという願いは、天皇の中で終わりを迎えた。

1866年、長州征討の最中に将軍家茂が若くして死に、慶喜が将軍を継いだ。その年の暮れ、天皇は天然痘にかかった。一時は快方に向かうかに見えたが、容体が急変し、慶応2年12月25日、西暦では1867年1月30日、35歳で亡くなった。あまりに急な死だったため、毒を盛られたのではないかという噂が当時からささやかれ、イギリスの外交官アーネスト・サトウも日記にその噂を書き留めている。倒幕を目指す勢力にとって、幕府を支持する天皇は邪魔な存在だったからである。しかし、毒殺を示す確かな証拠は無く、天然痘が重症化したことによる死とみる研究者も多い。この論争は、いまも決着していない。

孝明天皇御胞衣埋納所、胞衣(えな)とは胎盤。東山区五条通東大路西入北側(若宮八幡宮社内)
孝明天皇御胞衣埋納所、胞衣(えな)とは胎盤。東山区五条通東大路西入北側(若宮八幡宮社内)Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

天皇の死の翌年、15歳の息子明治天皇のもとで、大政奉還と王政復古の大号令が続いた。攘夷を唱えた天皇が亡くなり、攘夷を掲げて立ち上がった志士たちが、天皇の名のもとに幕府を倒し、やがて開国と西洋化を進めていく。孝明天皇が望まなかったことが、息子の名で起きていったのである。遺体は京都の泉涌寺の後月輪東山陵に葬られた。

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