マシュー・ペリー
概要
艦隊を率いて浦賀に現れ、200年余り続いた鎖国を外から開かせた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(2)
黒船来航1853年7月8日(嘉永6年6月3日) · 当人日米和親条約1854年3月31日(安政元年3月3日) · 交渉本文
マシュー・カルブレイス・ペリーは1794年、アメリカ北東部ロードアイランド州のニューポートで、海軍士官の家に生まれた。兄弟の多くが海軍に入り、兄のオリヴァーは1812年に始まるイギリスとの戦争で、エリー湖の戦いに勝って国民的な英雄になった。マシューも14歳で海軍に入り、同じ戦争に従軍している。
ペリーの経歴の大部分は、日本とは関係のない仕事で占められている。西アフリカの沿岸では、解放された黒人の入植地リベリアの建設に関わる航海や、奴隷貿易の取り締まりにあたった。ニューヨークの海軍工廠では、アメリカ海軍の初期の蒸気軍艦フルトン号の建造を監督し、士官に蒸気機関を教える制度や、海軍の教育の改革に力を入れた。のちに「蒸気船海軍の父」と呼ばれるのはそのためである。米墨戦争では、メキシコ湾の艦隊を率いてベラクルスの攻略などにあたった。

1840年代、アメリカは太平洋岸まで領土を広げ、中国との貿易と、北太平洋での捕鯨に目を向けていた。太平洋を渡る蒸気船には途中で石炭と水を補給する港が要り、難破した捕鯨船の船員を保護してもらう必要もあった。そのどちらにとっても、日本の港を開かせることが課題になった。1846年にはビドルが浦賀に来て通商を求めたが、穏やかに断られて引き下がっている。1852年、ペリーは東インド艦隊の司令長官に任じられ、日本と条約を結ぶ任務を与えられた。ペリーは出発前にオランダやイギリスの記録を集めて日本について調べ、交渉では礼を尽くしながらも決して侮られてはならない、という方針を立てていた。
1852年11月、ペリーは蒸気軍艦ミシシッピ号でヴァージニア州のノーフォークを出た。大西洋を渡り、喜望峰を回り、インド洋を越えて、シンガポール、香港、上海に寄った。太平洋を横切る航路はまだ無かったから、地球を半周以上してたどり着いたことになる。1853年5月には琉球の那覇に入り(琉球王国)、王府の反対を押し切って首里城を訪問した。6月には小笠原諸島の父島に行き、貯炭所のための土地を買っている。日本との交渉がうまくいかなければ、これらを拠点として使うことも考えていた。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、蒸気船2隻、帆船2隻の艦隊が浦賀の沖に錨を下ろした(黒船来航)。黒く塗られた船体の蒸気船が、帆を張らずに風に逆らって進む様子は、見る者を驚かせた。幕府は、異国との応接は長崎で行うという決まりに従って、長崎へ回るよう求めた。ペリーはこれを拒み、大統領の国書は浦賀で、しかるべき高官に渡すと言って譲らなかった。浦賀奉行所の役人とは自分では会わず、副官に応対させ、自分は姿を見せないことで重みを演出している。測量船を江戸湾の奥まで入らせ、独立記念日には礼砲を撃ち鳴らした。いずれも、相手に力の差を見せつけるための計算された振る舞いだった。

幕府は、国書の受け取りを認めた。7月14日、久里浜に急いで建てた応接所で、浦賀奉行に国書が手渡された。ペリーは返事を受け取るために来春にまた来ると告げて、10日ほどで去った。将軍徳川家慶はその直後に病死する。老中の阿部正弘は、異例にも諸大名や幕臣に広く意見を求めた。幕府が外交について下の者の考えを問うたことは、後の政治の動きを大きく変えるきっかけになった。
ペリーは予告よりも早く、半年余りのちの1854年2月に、7隻、のちに9隻に増えた艦隊を率いて戻ってきた。ロシアやフランスの艦隊に先を越されることを警戒し、幕府に準備の時間を与えないためでもあった。横浜村に設けた応接所で交渉が重ねられ、3月31日、日米和親条約が結ばれた。下田と箱館の2港を開き、薪や水、食料、石炭を供給し、漂流民を保護し、下田に領事を置くことを認める内容だった。通商、つまり自由な貿易は含まれていなかった。アメリカ側は、4分の1の大きさの蒸気機関車の模型と線路、電信機などを贈った。模型の機関車は円を描くように敷いた線路を走り、幕府の役人が屋根にまたがって乗ったという。

帰りに再び琉球に寄って琉球王国とも条約を結び、ペリーは1855年にアメリカへ戻った。遠征の記録は、議会の命で大部の報告書『ペリー艦隊日本遠征記』にまとめられた。日本の人々を、好奇心が強く、器用で、西洋の技術を学べばやがて手ごわい競争相手になるだろうと書いている。ペリーは1858年3月、ニューヨークで死んだ。63歳。条約で決められた領事としてタウンゼント・ハリスが下田に来て、通商を認める日米修好通商条約を結んだのは、その死の数か月後のことだった。
日本の側には、ペリー来航についての記録が大量に残った。黒船を描いた瓦版や錦絵が飛ぶように売れ、乗組員の顔や艦の姿を描いた絵が出回った。泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も寝られず、という狂歌は来航の騒ぎを伝えるものとして有名だが、作られた時期には議論があり、明治以後のものとする見方もある。ペリー自身は条約を結んだ後まもなく世を去ったが、その来航を境に、幕府の権威は揺らぎ始め、15年後の明治維新へとつながっていった。