五箇条の御誓文
概要
広く会議を興し万機公論に決すべし。新政府がどういう国を作るかを最初に示した。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(2)
木戸孝允1833年–1877年 · 草案に関与明治天皇1852年–1912年 · 誓った本文
慶応3年(1867年)の大政奉還で、徳川慶喜は政権を朝廷に返した。年の暮れには王政復古の大号令が出され、幕府も摂政・関白も廃して、天皇のもとに新しい政府を置くと宣言された。けれども、その新しい政府がどういう国を作るのかは、まだ誰にも示されていなかった。年が明けると鳥羽・伏見で旧幕府軍との戦いが始まり、新政府軍は東へ兵を進めていた。諸藩の多くは、どちらに付くかを決めかねていた。
方針を言葉にする必要があった。最初の案を書いたのは、越前藩士の由利公正である。慶応4年の正月ごろにまとめた「議事之体大意」は、庶民がそれぞれの志を遂げられるようにすること、身分の上下が心を一つにすること、知識を世界に求めることなどを五つの条にしていた。由利は以前、坂本龍馬と親しく、龍馬が示したとされる新しい国の構想(いわゆる船中八策)の影響を指摘する人もいるが、船中八策そのものの成り立ちには疑問も出されている。

この案に土佐藩の福岡孝弟が手を入れた。冒頭に「列侯会議ヲ興シ」と置き、天皇と諸侯が盟約を結ぶ「会盟」の形にした。大名たちの会議で国の方針を決める、という考え方で、土佐藩が唱えていた公議政体論に沿うものだった。
最後に手を入れたのが、長州藩の木戸孝允である。木戸は「列侯会議」を「広ク会議」と改めた。会議に加わる者を大名に限らない書き方である。さらに、天皇が諸侯と盟約を結ぶのではなく、天皇が公家と大名を率いて天地の神々に誓うという形に変えた。天皇と大名を対等な盟約の当事者に置かず、天皇を誓いの中心に据えることで、新しい政府の権威を一つにまとめる狙いがあったとされる。

慶応4年3月14日(1868年4月6日)、京都御所の紫宸殿で儀式が行われた。満15歳の明治天皇の前で、副総裁の三条実美が誓文を読み上げ、公家と大名が一人ずつ進み出て拝礼し、誓いに従うことを記した文書に署名した。同じ日、江戸では西郷隆盛と勝海舟が会い、江戸城を戦わずに明け渡す話し合いがまとまりつつあった。
五つの条は次のとおりである。第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」。第二条「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」。第三条「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」。第四条「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」。第五条「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」。会議で物事を決め、身分を越えて志を遂げさせ、古い悪い習わしを破り、世界から学ぶ。具体的な制度ではなく、向かう方角を示した文書だった。
誓文が出た翌日の3月15日、政府は全国の高札場に五榜の掲示を掲げた。人の道を守ること、徒党や強訴を禁じること、そしてキリスト教を邪宗門として禁じることなど、内容の多くは幕府の触れ書きをそのまま引き継いでいた。五榜の掲示は民衆に向けたもので、誓文は公家と大名に向けたものだった。新しい方針と古い禁令が、一日違いで並んで出たことになる。キリスト教の禁止が高札から消えるのは、欧米の強い抗議を受けた1873年のことである。
誓文の言葉は、すぐに制度の拠り所として使われた。同じ年の閏4月に出された政体書は、冒頭で誓文を掲げ、権力を立法・行政・司法に分けることをうたった。知識を世界に求めるという一条は、のちに政府の首脳が欧米を回った岩倉使節団にも通じている。1874年に板垣退助らが議会の開設を求めたとき、彼らが頼ったのも「万機公論ニ決スヘシ」の一句だった。政府が掲げた言葉が、政府を縛る言葉として使われるようになった。

誓文は、その後も時代の節目で呼び出された。敗戦の翌年の1946年元日、昭和天皇のいわゆる人間宣言は、冒頭にこの五箇条をそのまま掲げている。民主主義は外から持ち込まれたものではなく、明治の初めに既に示されていた、という意図があったとされる。