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Event / できごと

和宮降嫁

Kazunomiya's marriage to the shogun
AD1862年3月11日(文久2年2月11日)
重要度 3

概要

孝明天皇の妹が、婚約を解かれて将軍家茂に嫁いだ。公武合体。中山道を25日、行列は数万人。「攘夷を実行する」という幕府の約束の担保だった。家茂は4年で死に、和宮は江戸の無血開城で嘆願書を書いた。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(2)

和宮AD1846年7月3日–AD1877年9月2日 · 降嫁孝明天皇AD1831年7月22日–AD1867年1月30日 · 兄

本文

和宮親子内親王。 仁孝天皇の第八皇女。 生まれる前に父が死んだ。 6歳で有栖川宮熾仁親王と婚約。 1860年、 井伊直弼が死んだあと、 老中の安藤信正と久世広周が、 公武合体の柱として、 将軍家茂との結婚を求めた。 岩倉具視が、 朝廷の側で進めた。 「攘夷を10年以内に実行する」。 幕府がそう約束した。 孝明天皇は、 妹に「泣く泣く」頼んだ。 和宮は、 「私は嫌だ」。 「江戸へ行くくらいなら尼に」。 天皇の手紙。 「これを断れば、 私は退位する」。 承知した。 16歳。

文久元年10月20日、 京を出た。 中山道。 東海道は大井川の渡しが不確かで、 女の行列には向かないとされた。 行列は、 京都から江戸まで、 延べ数万人。 沿道の村は、 道の修理と、 人足と、 宿の準備に、 数年分の負担をした。 「和宮様御下向」。 11月15日、 江戸。 翌年2月11日、 結婚。 家茂は16歳、和宮は15歳。 和宮は、 江戸城でも御所の服と言葉を通した。 天璋院と、 上座を争った。

家茂は、 1866年7月、 第二次長州征伐の途中、 大阪城で死んだ。 20歳。 和宮は落飾して静寛院宮。 1868年、 東征軍が江戸へ。 「徳川家の存続を」。 橋本実麗を通して、 嘆願書を朝廷へ。 天璋院も、 薩摩へ。 江戸は攻められなかった。 和宮の嘆願がどれだけ効いたかは、 分からない。 1877年、 箱根で脚気で死んだ。 31歳。 遺言で、 家茂の隣に。 増上寺。 1958年、 墓が調査され、 遺骨の手に、 若い男の写真の乾板が握られていたと、 伝えられる。 写真は、 翌日、 消えていた。 「惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも」。 京を出るときの歌。

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