概要
孝明天皇の妹が、婚約を解かれて将軍家茂に嫁いだ。公武合体。中山道を25日、行列は数万人。「攘夷を実行する」という幕府の約束の担保だった。家茂は4年で死に、和宮は江戸の無血開城で嘆願書を書いた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(2)
和宮AD1846年7月3日–AD1877年9月2日 · 降嫁孝明天皇AD1831年7月22日–AD1867年1月30日 · 兄本文
和宮親子内親王。 仁孝天皇の第八皇女。 生まれる前に父が死んだ。 6歳で有栖川宮熾仁親王と婚約。 1860年、 井伊直弼が死んだあと、 老中の安藤信正と久世広周が、 公武合体の柱として、 将軍家茂との結婚を求めた。 岩倉具視が、 朝廷の側で進めた。 「攘夷を10年以内に実行する」。 幕府がそう約束した。 孝明天皇は、 妹に「泣く泣く」頼んだ。 和宮は、 「私は嫌だ」。 「江戸へ行くくらいなら尼に」。 天皇の手紙。 「これを断れば、 私は退位する」。 承知した。 16歳。
文久元年10月20日、 京を出た。 中山道。 東海道は大井川の渡しが不確かで、 女の行列には向かないとされた。 行列は、 京都から江戸まで、 延べ数万人。 沿道の村は、 道の修理と、 人足と、 宿の準備に、 数年分の負担をした。 「和宮様御下向」。 11月15日、 江戸。 翌年2月11日、 結婚。 家茂は16歳、和宮は15歳。 和宮は、 江戸城でも御所の服と言葉を通した。 天璋院と、 上座を争った。
家茂は、 1866年7月、 第二次長州征伐の途中、 大阪城で死んだ。 20歳。 和宮は落飾して静寛院宮。 1868年、 東征軍が江戸へ。 「徳川家の存続を」。 橋本実麗を通して、 嘆願書を朝廷へ。 天璋院も、 薩摩へ。 江戸は攻められなかった。 和宮の嘆願がどれだけ効いたかは、 分からない。 1877年、 箱根で脚気で死んだ。 31歳。 遺言で、 家茂の隣に。 増上寺。 1958年、 墓が調査され、 遺骨の手に、 若い男の写真の乾板が握られていたと、 伝えられる。 写真は、 翌日、 消えていた。 「惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも」。 京を出るときの歌。