禁門の変

概要
長州が京都へ攻め上って敗れ、朝敵とされた。ここから長州は追い詰められていく。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
久坂玄瑞AD1840年–AD1864年8月20日 · 自刃本文
文久3年(1863年)の八月十八日の政変で、長州は京都から締め出された。藩の中では、兵を率いて京都へ上り、名誉を回復すべきだという声が強まっていく。慎重論を唱える者もいたが、翌年6月、京都の旅館で尊攘派の志士たちが新選組に襲われた池田屋事件の知らせが届くと、もう抑えがきかなくなった。
久坂玄瑞は吉田松陰の松下村塾で学び、松陰の妹を妻にした人物である。師の刑死の後は長州の尊攘派の先頭に立ち、前年の下関での外国船砲撃にも加わっていた。ただし久坂自身は、この出兵には最後まで慎重だったとも伝えられる。

長州は、福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家老に兵を預け、京都へ向かわせた。部隊を率いたのは来島又兵衛、久坂玄瑞、久留米の神官出身の真木和泉らである。兵は伏見・山崎・嵯峨の3か所に陣を張り、藩主父子の赦免と、京都を守る会津藩主・松平容保の追放を朝廷に嘆願した。
朝廷の中には長州に同情する公家もいた。しかし孝明天皇は長州を許さなかった。一橋慶喜(のちの徳川慶喜)が朝廷を説いて、長州の退去を命じさせる。長州側はこれを拒み、元治元年7月19日(1864年8月20日)の未明、御所へ向けて進んだ。
激戦になったのは、御所の西側の蛤御門である。来島の隊は会津・桑名の兵を押し込み、一時は門の中まで迫った。そこへ薩摩の兵が駆けつけ、来島は銃弾を受けて討たれた。薩摩勢を指揮していたのは西郷隆盛だった。久坂の隊は御所の南の堺町御門へ向かったが、越前などの兵に阻まれ、隣接する鷹司家の屋敷に入って抵抗した。屋敷に火がかけられ、久坂はそこで自刃した。満24歳だった。真木は敗兵とともに天王山へ退き、数日後、仲間とともに自決している。
御所の防衛の指揮を執っていたのは、禁裏御守衛総督の一橋慶喜である。慶喜は自ら馬で御所の周りを駆け回って兵を励ましたとされ、この戦いで朝廷からの信頼を一段と強めた。この変は、戦いの場所から「蛤御門の変」とも呼ばれる。
戦いは1日で終わったが、火は収まらなかった。長州藩の屋敷や鷹司邸から上がった火、追撃の際につけられた火が広がり、京都の町は3日にわたって燃えた。「どんどん焼け」「鉄砲焼け」と呼ばれ、2万数千戸が焼けたとされる。京都の町衆にとっては、応仁の乱以来の大火とも言われた。
火が迫る中、六角の獄舎に捕らえられていた尊攘派の志士たちは、逃亡を恐れた役人の手で30人余りがまとめて斬られた。前年に但馬で挙兵した平野国臣もその中にいた。
長州が受けた打撃は、兵の損失よりも名分の喪失のほうが大きかった。御所に向けて発砲した藩は朝敵とされ、幕府は諸藩に長州征討を命じた。追い打ちをかけるように、翌月には前年の外国船砲撃の報復として、英仏米蘭の艦隊が下関の砲台を攻撃した(四国艦隊下関砲撃事件)。

内と外から追い込まれた長州では、藩の中で幕府に恭順すべきだとする保守派が力を握った。出兵を指揮した三家老は切腹させられ、その首を差し出すことで征討軍との戦いは避けられた。その交渉の場で、征討軍の参謀として寛大な処分をまとめたのが、蛤御門で長州と戦った西郷である。
一度は潰れかけた長州だったが、その年の暮れ、高杉晋作が下関の功山寺でわずかな兵とともに挙兵し、藩の主導権を取り戻した。長州は再び幕府と対決する道を選び、第二次長州征討を迎え撃つことになる。蛤御門で長州を撃った薩摩が、わずか1年半後に長州と手を結ぶ(薩長同盟)。禁門の変の遺恨の深さを思えば、その同盟がどれほど思い切ったものだったかが分かる。