箱館戦争の終結
概要
五稜郭が開城し、戊辰戦争が終わった。700年近く続いた武家政権がここで完全に終わる。
場所
41.80°N 140.76°E · 日本・北海道函館市
関わった人(2)
榎本武揚AD1836年10月5日–AD1908年10月26日 · 総裁土方歳三AD1835年5月31日–AD1869年6月20日 · 戦死本文
慶応4年(1868年)4月、江戸城は戦わずに新政府軍へ明け渡された(鳥羽・伏見の戦いから3か月後)。だが、旧幕府の海軍は引き渡しを拒んだ。率いていたのは榎本武揚である。オランダに留学し、そのオランダで建造された軍艦・開陽に乗って帰国した人物だった。当時の日本で最も強力な艦隊は、まだ旧幕府の側にあった。
8月、榎本は開陽をはじめとする艦隊を率いて品川沖を脱出した。途中で嵐に遭って船を失いながら、東北で敗れた旧幕府の兵や新選組の生き残りを拾い、蝦夷地へ向かう。
艦隊には、幕府の陸軍を指導するためにフランスから来ていた軍事顧問団のうち、ブリュネら数人も、本国の命令に背いて加わっていた。会津若松城が降伏したのは、その少し前のことだった(会津戦争)。

10月、艦隊は箱館の北の鷲ノ木に上陸し、箱館の奉行所が置かれていた五稜郭を占拠した。松前藩の城も落とし、蝦夷地をほぼ手中にする。12月には、士官たちの入れ札(投票)で役職を決め、榎本を総裁に選んだ。陸軍の幹部には、新選組の副長だった土方歳三が入っている。彼らは、蝦夷地を開拓して旧幕臣の生計を立てさせたいと新政府に願い出たが、聞き入れられなかった。
この政権は、のちに「蝦夷共和国」と呼ばれることがある。ただしこれは、選挙で長を選んだことを外国人が共和国になぞらえて伝えたことに由来する呼び名で、彼ら自身がそう名乗ったかどうかははっきりしない。掲げていたのは、あくまで徳川家の家臣団のための蝦夷地の開拓だった。

ところが冬のうちに、主力の開陽が江差の沖で座礁して沈んだ。海の優位が一気に崩れる。翌明治2年3月には、新政府側の新鋭艦・甲鉄を奪おうと宮古湾で斬り込みをかけたが、失敗した。
軍艦・回天が甲鉄に横付けして兵が乗り移ったが、甲鉄の機関砲に撃たれて退き、回天の艦長・甲賀源吾が戦死した。

4月、新政府軍は蝦夷地の西岸に上陸し、陸と海から箱館へ迫った。土方は二股口で新政府軍を何度も押し返したが、他の方面が崩れて退かざるを得なくなる。5月11日の総攻撃で箱館の市街は落ち、土方は一本木関門の付近で銃弾を受けて死んだ。満34歳だった。
五稜郭に追い込まれた榎本たちに、新政府軍の参謀・黒田清隆は降伏を勧めた。榎本は、オランダから持ち帰った国際海洋法の書物『海律全書』を、戦火で失われるのは惜しいとして黒田に贈ったと伝えられる。黒田は返礼に酒を届けたという。5月18日、五稜郭は開城した。

箱館の戦いの中では、旧幕府側の病院を預かった医師・高松凌雲が、敵味方を区別せずに負傷者を治療したことが知られている。パリで医学を学び、そこで見た赤十字の考え方に倣ったとされる。新政府軍の兵が病院に踏み込んだとき、凌雲が事情を説いて患者への手出しを止めさせたと伝えられる。
榎本たち幹部は東京へ送られて投獄された。死罪を求める声は強かったが、黒田は助命に奔走し、自分の頭を丸めてまで嘆願したと伝えられる。榎本の持つ西洋の知識は、新しい国家にとって失うには惜しいと考えたとされる。

明治5年に赦された榎本は、開拓使に出仕して北海道の資源を調べた。その後は特命全権公使としてロシアへ赴き、樺太・千島交換条約をまとめている。さらに逓信・文部・外務・農商務の大臣を歴任した。箱館で戦った者が、のちに政府の中枢に座る。明治政府が人材を求めていたことの表れであり、福沢諭吉からは、旧主に殉じなかった変節だと手厳しく批判された。
箱館の開城で、1年半にわたった戊辰戦争は終わった。壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、鎌倉に武家の政権ができてから、およそ700年になる。武士が政権を握り、その力で国を治める時代は、ここで最終的に終わった。同じ年、新政府は蝦夷地を北海道と改め、北海道開拓使を置いて開拓を始める。旧幕臣が夢見た蝦夷地の開拓は、皮肉なことに、彼らを破った政府の手で進められた。

箱館は、この年のうちに函館と表記が改められた。旧幕府側の戦死者は、長く葬ることが許されず野ざらしにされたと伝えられるが、のちに函館山の麓に慰霊の碑(碧血碑)が建てられた。