生麦事件

概要
薩摩の行列を横切ったイギリス人が斬られた。攘夷の実行が、そのまま外国との戦争を招く。
場所
35.50°N 139.67°E · 日本・神奈川県横浜市鶴見区
本文
文久2年(1862年)、薩摩藩主の父・島津久光は、兵を率いて江戸に乗り込んでいた。朝廷の勅使を護衛し、幕府に人事の改革を呑ませるためである。藩主でもない人物が兵の力で幕政に口を出す。それ自体が、幕府の威信の衰えを示していた。用を済ませた久光の一行は、東海道を京都へ引き返す途中だった。
旧暦8月21日の午後、武蔵国生麦村(いまの横浜市鶴見区)で、行列は馬に乗った4人のイギリス人と行き会った。上海から来ていた商人のリチャードソン、横浜の商人マーシャルとクラーク、マーシャルの義妹にあたる女性のボロデールである。前の年に開かれた横浜開港以来、居留地の外国人は東海道沿いへ遠乗りに出ることがあった。
大名行列に出会えば、道の脇に寄って下馬し、通り過ぎるのを待つのが日本の作法だった。4人は道の端に寄ろうとしたが、行列が道いっぱいに広がっていて、馬が列の中へ入り込む形になったとされる。引き返そうとしたところへ、供の藩士が斬りつけた。リチャードソンは深手を負って落馬し、とどめを刺されて死んだ。男2人も重傷を負い、神奈川にあったアメリカ領事館の寺へ逃げ込んだ。女性は無傷で横浜へ駆け戻った。
最初に斬りつけたのは供頭の奈良原喜左衛門だったとする説が有力だが、記録によって名前が食い違い、はっきりしない。とどめを刺した者についても複数の話が伝わっている。負傷した2人は、横浜で診療所を開いていたアメリカ人の宣教医ヘボン(ヘップバーン)の手当てを受けた。リチャードソンの墓は、いまも横浜の外国人墓地にある。

居留地は騒然となった。外国人の中には、兵を出して久光の一行を追えと叫ぶ者もいた。イギリスの代理公使ニールはこれを抑え、外交の手続きで責任を問う道を選んだ。久光の一行は、その夜の宿を予定どおりにとり、そのまま京都へ向かっている。京都では、外国人を斬った薩摩を攘夷の手本としてもてはやす声があった。
翌1863年、イギリスは幕府に謝罪と10万ポンドの賠償を、薩摩には犯人の処刑と2万5千ポンドを求めた。幕府は迷った末に支払った。年間の財政を揺るがすほどの額である。

支払いをめぐって幕府内の意見は割れ、横浜には各国の軍艦が集まって、住民が避難を始めるほど緊張が高まった。最後は老中格の小笠原長行が、ほとんど独断の形で銀貨を横浜へ運ばせて支払いを済ませた。その一方で幕府は、朝廷に約束した攘夷の期限を守る姿勢も見せねばならなかった。外国に頭を下げ、朝廷にも顔を立てる。幕府の苦しい立場がよく表れている。薩摩は、犯人は行方が分からないとして拒んだ。
その年の夏、イギリスの艦隊7隻が鹿児島湾に入った。交渉は決裂し、砲撃戦になる(薩英戦争)。鹿児島の城下は大きく焼け、薩摩の砲台は破壊された。一方でイギリス側も旗艦の艦長が戦死するなど、無傷では済まなかった。

戦いのあと、薩摩は賠償金を支払った。金は幕府から借りて、返さなかったと伝えられる。そして薩摩はこの戦いで、外国と正面から戦えば勝てないことを身をもって知った。攘夷を掲げていた藩が、ここからイギリスに近づき、留学生を送り、武器を買い、軍を西洋式に改めていく。
慶応元年(1865年)には、幕府の禁を破って19人の藩士をイギリスへ送り出した。のちに初代文部大臣となる森有礼や、大阪の財界を築く五代友厚が含まれている。斬った側の藩が、斬られた側の国に若者を学ばせに行く。それほどの転換を、わずか3年のうちにやってのけたことになる。

同じ年、長州も下関海峡で外国船を砲撃し、翌年には四国の艦隊に砲台を占領された(四国艦隊下関砲撃事件)。攘夷を唱えることと、実際に外国人を斬り、外国船を撃つことは違う。撃てば戦争になり、戦争になれば負ける。生麦事件はその当たり前のことを、薩摩に、そして日本全体に突きつけた最初の出来事だった。のちに倒幕を担う二つの藩が、ともに攘夷の実行で痛い目を見たうえで方針を変えたことは、明治維新の性格を大きく決めている。