安政の大獄
概要
条約と将軍継嗣に反対した公家・大名・志士を百人以上処分した。吉田松陰もここで死ぬ。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(2)
井伊直弼1815年–1860年3月24日(安政7年3月3日) · 主導橋本左内AD1834年4月19日–AD1859年11月1日 · 斬られた本文
嘉永6年(1853年)の黒船来航から5年、幕府は二つの難題を同時に抱えていた。一つは、アメリカが求める通商条約を結ぶかどうか。もう一つは、病弱で子のない13代将軍家定の跡継ぎを誰にするかである。
跡継ぎ争いでは、二つの勢力がぶつかっていた。水戸藩の前藩主・徳川斉昭の子で、英明の評判が高い一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を推したのが、越前藩主の松平慶永、薩摩藩主の島津斉彬らの「一橋派」である。これに対し、血筋の近い紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)を推したのが、彦根藩主の井伊直弼ら譜代大名を中心とする「南紀派」だった。越前藩士の橋本左内は、慶永の手足となって京都で公家への働きかけに奔走していた。

安政5年(1858年)4月、井伊直弼は大老に就いた。大老は非常のときに置かれる最高の役職である。井伊は、6月、朝廷の許しを得られないまま、日米修好通商条約の調印に踏み切った。孝明天皇は、外国との通商に強く反対していた。そして同じ月、慶福を将軍の跡継ぎとすることを発表した。
一橋派の大名たちは激しく反発した。徳川斉昭や松平慶永らは、決められた登城の日でもないのに江戸城に押しかけ、井伊を詰問した。井伊は、これを規則違反として、斉昭に謹慎、慶永に隠居と謹慎などを命じた。7月には将軍家定が亡くなり、続いて、一橋派の大名の中で最も力のあった島津斉彬も急死した。

8月、孝明天皇は、幕府を飛び越えて、水戸藩に直接、勅書を下した。条約の調印を責め、諸大名と協力して幕政を改めよという内容である。戊午の密勅と呼ばれる。朝廷が幕府を通さずに大名に命令を出すことは、幕府の権威を根本から揺るがす。井伊は、この勅書の陰に、一橋派の大名と、京都で公家を動かした志士たちの策動があると見た。
9月、京都で、尊攘派の儒学者・梅田雲浜が捕らえられたのを皮切りに、大規模な取り締まりが始まった。老中の間部詮勝が京都に乗り込み、公家の家臣や、各地から集まっていた志士たちが次々に捕らえられ、江戸へ送られた。朝廷の中でも、条約に反対した公家たちが官職を辞めさせられたり、謹慎を命じられたりした。

処分は翌安政6年にかけて続いた。徳川斉昭は永蟄居、一橋慶喜は隠居と謹慎を命じられた。そして、橋本左内、頼山陽の子の頼三樹三郎、密勅に関わった水戸藩の家老・安島帯刀らが死罪となった。梅田雲浜は獄中で病死している。処分を受けた者は、公家、大名、藩士、学者、僧まで含めて百人を超え、連座して謹慎させられた者を合わせると、さらに多くなる。
長州の吉田松陰も、この嵐の中で命を落とした。松陰は、梅田雲浜との関わりを問われて江戸に呼び出されたが、取り調べの場で、聞かれてもいない老中・間部詮勝の暗殺計画を自ら語り出したとされる。幕府の役人に、自分の考えを堂々と述べて分かってもらおうとしたのだとも言われる。それが死罪の決め手になった。処刑の前日に書き上げた遺書『留魂録』は、門下生たちの間で回し読みされた(吉田松陰の刑死)。
井伊が狙ったのは、条約の調印への批判を封じることと、跡継ぎ争いで敗れた側の勢力を潰すことだった。政策をめぐる争いと、人事をめぐる争いが、一つの弾圧の中でまとめて処理されたのである。幕府の側から見れば、混乱を収めて将軍の権威を取り戻すための、やむを得ない措置だった。
だが、弾圧は反対派を減らさなかった。むしろ、処刑された者たちを殉教者にし、怒りを燃え上がらせた。安政7年3月3日(1860年3月24日)、雪の朝、登城しようとした井伊直弼は、江戸城の桜田門の外で、水戸藩を脱藩した浪士らに襲われ、首を取られた(桜田門外の変)。
幕府の最高権力者が、白昼、城の門の前で殺されたことは、幕府の威信を地に落とした。そして、松陰の門下から出た高杉晋作や伊藤博文らは、やがて幕府を倒し、新しい政府を作ることになる。安政の大獄は、幕府が力で反対を抑え込もうとして、かえって自らの終わりを早めた出来事だった。