五榜の掲示
概要
五箇条の御誓文の翌日、民衆に向けた高札。儒教の道徳、徒党と強訴の禁止、キリスト教の禁止、外国人への暴行の禁止、脱藩の禁止。新政府の最初の民衆政策は、幕府と同じだった。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
1868年4月6日(慶応4年3月14日)、京都の御所で、明治天皇が公家や大名を率いて神々に誓いを立てた。広く会議を開いて政治は人々の議論で決めること、身分の上下が心を一つにすること、古い悪い習わしを破ること、知識を世界に求めること。五箇条の御誓文である。鳥羽・伏見の戦いからまだ3か月足らず、江戸では総攻撃の期日が迫っていた。新しい政府は、自分たちが何を目指すのかを示す必要があった。
その翌日、4月7日(3月15日)、政府は民衆に向けて、五枚の高札を掲げさせた。五榜の掲示と呼ばれる。高札は、町や村の辻や橋のたもとに立てられる木の札で、江戸時代を通じて、幕府が人々に法度を知らせる手段だった。新政府は、その古い手段をそのまま使い、旧幕府の高札を取り外させて、自分たちの名で掲げ直した。
第一の札は、人として守るべき道を説いた。親子・君臣・夫婦・兄弟・友人のあいだの五つの道(五倫)を正しくし、夫や妻を亡くした者、身寄りの無い子や老人、病や障りのある者をあわれみ、人を殺し、家を焼き、物を盗むような悪事をしてはならない。儒教の道徳そのものである。
第二の札は、徒党を組むこと、集団で訴え出ること(強訴)、村をこぞって逃げ出すこと(逃散)を禁じた。つまり百姓の一揆の禁止である。幕末から明治の初めにかけて、各地では年貢の軽減や世直しを求める一揆や打ちこわしが続いていた。
第三の札は、キリスト教と「邪宗門」を固く禁じた。江戸時代のキリシタン禁教令以来の禁制を、そのまま受け継いだ文言である。第四の札は、外国人に乱暴を働くことを禁じた。新しい政府は国際法に従って外国と付き合うことになったのだから、外国人を殺したり傷つけたりしてはならない、という趣旨で、2か月前の神戸事件や、直前に起きた堺事件を受けたものだった。第五の札は、武士や庶民がみだりに自分の国(藩)を抜け出すことを禁じた。脱藩した志士たちが作った政府が、脱藩を禁じたことになる。
五枚のうち、第一から第三は長く守るべき決まりとして、第四と第五はさしあたっての心得として掲げられた。誓文が公家と大名に向けて新しい政治の理想を語ったのに対し、民衆に向けた掲示は、幕府の高札とほとんど変わらない内容だった。人々は従い、集まらず、逃げず、異国の教えを信じず、外国人に手を出すな。少なくとも最初のうち、新しい政府は、民衆の暮らしの決まりを変えるつもりはなかったのである。
第三の札は、すぐに外国から抗議を受けた。キリスト教を「邪宗門」と並べて禁じるのは、キリスト教の国々を侮辱するものだというのである。政府は同じ年のうちに文言を改め、キリスト教の禁制と邪宗門の禁止を別々の項に分けたが、禁じることそのものはやめなかった。
その背景には、長崎の浦上で起きていたことがあった。1865年、完成したばかりの大浦天主堂を訪れた浦上の村人たちが、フランス人の神父に、自分たちも同じ信仰を持っていると打ち明けた(信徒発見)。250年にわたって信仰を隠し続けてきた人々だった。彼らが寺の葬式を拒むようになると、1867年、幕府の役人は信徒を捕らえはじめた。
新しい政府も、この方針を引き継いだ。1868年から1870年にかけて、政府は浦上の信徒およそ3400人を、西日本を中心とする20あまりの藩に分けて送った。浦上四番崩れと呼ばれる。送られた先では、改宗を迫る説得と責め苦が加えられ、寒さや飢え、病で600人以上が命を落とした。
各国の公使は、たびたびこれに抗議した。1871年に欧米へ向かった岩倉使節団も、行く先々でキリスト教徒への迫害を責められ、条約を改める交渉の妨げになることを思い知らされた。

1873年2月、政府は全国の高札を取り外すよう命じた。掲げられた内容はすでに人々に行き渡ったから、というのがその理由だった。キリスト教を禁じる札も、ほかの札とともに消えた。政府は禁制を解いたとは言わず、黙って取り下げたのである。浦上の信徒たちは故郷に帰ることを許された。
信仰の自由がはっきりと法に書かれたのは、1889年の大日本帝国憲法の発布の第28条である。ただしそこには、安寧秩序を妨げず、臣民としての義務に背かない限りで、という条件が付けられていた。誓文の理想と、五榜の掲示の現実とのあいだの距離は、明治の20年をかけて、少しずつ、条件付きで縮められていった。