鳥羽・伏見の戦い
概要
戊辰戦争の始まり。錦の御旗が翻り、旧幕府軍は朝敵となった。慶喜は大坂から江戸へ退く。
場所
34.93°N 135.75°E · 日本・京都市南部(戦闘は広範囲に及んだ)
関わった人(2)
徳川慶喜1837年–1913年 · 旧幕府側西郷隆盛1828年–1877年 · 新政府側本文
王政復古の大号令の後、徳川慶喜は京の二条城を出て大坂城に入っていた。辞官納地の命令は、越前・尾張の取りなしで骨抜きになりかけており、慶喜が新政府に議定として迎えられる道もまだ残っていた。それを断ち切ったのは江戸からの知らせである。薩摩藩邸に集まった浪士が江戸市中で放火や強盗を重ね、12月25日、庄内藩などが藩邸を焼き討ちにした。大坂の旧幕府方は、薩摩を討てと沸き立った。
慶喜は「討薩の表」を掲げ、上洛の名目で兵を京へ進めることを認めた。旧幕府軍は会津・桑名の藩兵、幕府の歩兵隊、新選組などから成り、鳥羽街道と伏見街道の二手に分かれて北上した。兵力は旧幕府軍が1万5千、迎え撃つ薩摩・長州を中心とする新政府軍が5千ほどとされる。数では3倍あった。

慶応4年1月3日の夕方、鳥羽街道の小枝橋のあたりで、通せ・通さぬの押し問答の末に薩摩の砲兵が撃ちかけ、戦いが始まった。砲声を聞いた伏見でも、伏見奉行所に入っていた会津兵・新選組と、御香宮の高台に陣取った薩摩兵の間で撃ち合いになる。高所から撃ち下ろされた奉行所は炎上し、旧幕府軍は退いた。
伏見で戦った新選組は、刀と槍で斬り込もうとして銃火に阻まれ、多くの隊士を失った。副長の土方歳三が、これからの戦いは刀や槍ではだめだと語ったという話が伝わっている。4日から5日にかけて、旧幕府軍は淀へ向けて退きながら、富ノ森や千両松で踏みとどまって戦ったが、押し戻された。新選組結成以来の古参だった井上源三郎は、この退却戦で戦死した。土佐藩は前藩主山内容堂から戦いに加わるなと命じられていたが、伏見にいた一部の部隊は独断で新政府軍に加わっている。

旧幕府軍の歩兵隊はフランス式の訓練を受けていたが、狭い街道を縦に長く進んだため数の利を生かせなかったとされる。新政府軍は射程の長い小銃を揃え、高所と街道の脇に兵を置いて待ち受けていた。
決定的だったのは、2日目の1月4日、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられ、錦の御旗が新政府軍の陣に掲げられたことである。天皇の軍であることを示す旗が出れば、それに向かう側は朝敵になる。この旗は、岩倉具視の指示で前もって用意されていたものだと伝えられる。古来の実物ではなく、意匠は国学者の玉松操が考え、大久保利通らが布を調達して長州で仕立てたという。

旗の効き目は大きかった。1月5日、敗走する旧幕府軍は淀城に入ろうとしたが、淀藩は門を閉ざした。藩主の稲葉正邦は幕府の老中だったにもかかわらずである。6日には、山崎の関門を守っていた津藩(藤堂家)が、旧幕府軍の側面に砲を向けた。昨日までの味方が、旗一本で敵に回った。
錦の御旗の話は、戦場の外でもよく効いた。東へ向かう新政府軍とともに、錦の御旗を歌い込んだ行進の歌が広まり、天皇の軍が朝敵を討ちに来たという構図が、沿道の人々にも分かりやすく伝わった。数で劣る新政府軍が東へ進むことができたのは、戦わずに恭順する藩が相次いだからでもある。

1月6日の夜、慶喜は大坂城を抜け出し、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らわずかな側近を連れて、軍艦開陽丸で江戸へ向かった。艦長の榎本武揚は上陸中で、置き去りにされた。城に残された将兵は、大将が消えたことを翌朝知った。慶喜は直前まで、千騎が一騎になっても退くなと将兵を励ましていたと伝えられる。
江戸に戻った慶喜に、フランス公使ロッシュは軍事援助を申し出て抗戦を勧め、勘定奉行の小栗忠順らも、箱根で新政府軍を迎え撃つ策を説いた。だが慶喜はこれを退けて小栗を罷免し、上野の寛永寺に入って謹慎した。鳥羽・伏見で背を向けた時点で、慶喜の心はすでに恭順に傾いていたとみる研究者は多い。

慶喜がなぜ逃げたのかは、今も評価が分かれる。戦意を失ったとみる見方、水戸家の出として朝敵の汚名を何より恐れたとみる見方、内戦が長引けば外国の介入を招くと判断したとみる見方がある。慶喜自身は晩年まで、この時の心中を多くは語らなかった。
慶喜はその後、江戸で謹慎し、隠居して静岡で30年近く暮らした。写真や狩猟、自転車に打ち込む悠々とした日々だったと伝えられ、政治の表舞台には二度と立たなかった。亡くなったのは1913年、大正の世になってからである。
新政府はすぐに慶喜追討の命令を出した。西日本の諸藩は次々に新政府へ恭順し、新政府軍は東へ向けて進み始める。この一戦で、戊辰戦争の帰趨はほぼ決まった。その先に、江戸城を戦わずに明け渡す交渉(江戸無血開城)と、東北・北越での長い戦い(会津戦争)が続き、最後は1869年の箱館戦争の終結で終わる。

数で勝る側が、旗と士気と地形で負けた戦いだった。西郷隆盛はこの勝利を聞いて、何より嬉しかったと書き残したとされる。徳川家と薩長の勢いは、この4日間で入れ替わった。