人物

近藤勇

Kondo Isami
1834年 – 1868年(享年34・推定)
江戸幕府重要度 3

概要

新選組局長。京都で尊攘派を取り締まったが、幕府の崩壊とともに斬られた。

関わったできごと(1)

池田屋事件1864年7月8日(元治元年6月5日) · 指揮

本文

1834年、武蔵国多摩郡上石原村(いまの東京都調布市)の農家、宮川家の三男に生まれた。幼名は勝五郎。多摩は幕府の直轄地で、豪農たちが自衛のために剣術を学ぶ土地柄だった。天然理心流の道場主・近藤周助に見込まれ、養子になって近藤勇を名乗る。江戸市谷の試衛館を継いだのは1861年で、ここに土方歳三や沖田総司ら、のちの新選組の中核が集まった。剣の家を継いでも、身分は士分ではない。1860年には御三卿の清水家に仕える家の娘つねと結婚し、娘のたまが生まれている。京都へ上ったあと、妻子と顔を合わせることはほとんどなかった。

近藤勇の肖像
近藤勇の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1863年、幕府は将軍の上洛を警護する浪士組を募った。近藤は試衛館の仲間と加わって京都へ上る。ところが発案者の清河八郎は、京都に着くと浪士組を尊王攘夷の先兵にすると言い出し、大半が江戸へ引き返した。近藤らは京都に残り、京都守護職の松平容保(会津藩)の預かりとなる。壬生浪士組と呼ばれ、同じ年の八月十八日の政変の後に新選組の名を与えられた。

結成時は芹沢鴨が筆頭格の局長だった。乱暴の目立った芹沢は同年秋に屯所で暗殺され、近藤が局長として隊を握る。隊規は厳しく、背いた者には切腹を命じた。内部の粛清は、その後も繰り返されている。のちに知られる「局中法度」の条文は、後年の聞き書きで広まったもので、当時の文面どおりかは分からない。

松平容保
松平容保Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

名を上げたのは池田屋事件だった。1864年6月5日(新暦7月8日)の夜、尊攘派の志士が集まる池田屋に、近藤はわずか数人で踏み込んだ。隊を二手に分け、土方の率いる本隊が別の宿を探しているあいだのことで、援軍が着くまでの長い時間を、少人数で斬り合いに耐えた。志士の側は多くが斬られるか捕らえられ、長州藩はこれを機に兵を京都へ向ける。故郷への手紙で、その夜の戦いを書き送っている。続く禁門の変でも出動し、新選組は都の治安を担う実力部隊として認められた。1867年には隊士がそろって幕臣に取り立てられ、近藤は旗本格になる。近藤自身は剣を振るうだけの人ではなかった。1865年には幕府の使節に従って広島へ下り、長州藩の処分をめぐる交渉の場に立ち会っている。郷里あての手紙には、長州を厳しく処すべきだという意見を書き送った。一方で隊の内部では、参謀格の伊東甲子太郎が考えの違いから1867年に一派を連れて離れ、その年の秋に新選組は伊東を斬った。

だが同じ年、大政奉還で幕府そのものが政権を返上する。年の暮れ、近藤は伏見で、伊東の一派の残党に狙撃され、肩を撃ち抜かれた。そのため翌1868年1月の鳥羽・伏見の戦いでは指揮を執れず、隊は土方が率いて敗れた。

近藤勇
近藤勇Wikimedia Commons 書写者不明 · Public domain

江戸に退いた近藤は、甲陽鎮撫隊を名乗って甲府へ向かったが、甲州勝沼で新政府軍に敗れる。下総の流山で再起を図ったところを包囲され、大久保大和という偽名で出頭した。新政府軍には元隊士がいて、正体を見破られたとされる。

4月25日(新暦5月17日)、板橋で斬首された。満33歳、数えで35歳。武士なら切腹のはずが、罪人としての斬首だった。坂本龍馬の暗殺を新選組の仕業と疑っていた土佐藩の者たちが、厳しい処分を強く求めたといわれる。首は京都の三条河原にさらされた。最後まで士分としては扱われなかったことになる。

錦絵「勝沼駅近藤勇驍勇之図」(月岡芳年画、1880年、東京都江戸東京博物館蔵)
錦絵「勝沼駅近藤勇驍勇之図」(月岡芳年画、1880年、東京都江戸東京博物館蔵)Wikimedia Commons Tsukioka Yoshitoshi · Public domain

人柄を伝える話は多いが、確かめられるものは少ない。拳を口に入れることができたという話は、仲間内の座興として伝えられる。剣の腕より、人を束ねる胆力で局長の座にいた人物と見る研究者が多い。

明治の新政府にとって、新選組は志士を斬った敵だった。名誉が語られるようになるのは、元隊士の回想が世に出た後のことになる。昭和に入って子母澤寛の聞き書きや小説が人気を呼び、近藤の像はそこから大きく形作られた。いま語られる姿には、後世の物語が多く混じっている。墓とされる場所が板橋や三鷹など各地にあるのも、首と胴が別々に扱われた最期を物語っている。

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