池田屋事件
概要
新選組が尊攘派の会合を襲った。長州の怒りが翌月の禁門の変につながる。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
近藤勇1834年–1868年 · 指揮本文
1863年の夏まで、京都の政局を握っていたのは長州藩と、それに結びついた尊王攘夷派の公家や浪士たちだった。天皇の名で幕府に攘夷の実行を迫り、異国船を砲撃し、反対する者を「天誅」と称して斬った。その年の8月18日、会津藩と薩摩藩が手を組んで御所の門を固め、長州藩とそれに近い公家たちを京都から追い出した(八月十八日の政変)。長州の兵は国元へ引き上げ、公家7人も長州へ落ちた。
追い出された側は諦めなかった。藩士や浪士が身を隠して京都に潜り込み、町家や旅館を拠点に巻き返しの機会をうかがった。これを取り締まったのが、京都守護職の会津藩主松平容保のもとに置かれた浪士の集団、新選組である。局長は近藤勇、副長は土方歳三。もとは江戸で集められた浪士組の一部が京に残ったもので、まだ名は知られていなかった。
1864年、元治元年6月5日の朝、新選組は四条小橋近くの薪炭商、枡屋喜右衛門を捕らえた。正体は近江出身の尊攘派の志士、古高俊太郎だった。家からは武器や甲冑、諸藩の志士との書状が見つかったという。新選組は古高を屯所で激しく拷問した。新選組や会津藩の側の記録によれば、古高は、風の強い日を選んで御所の近くに火を放ち、その混乱の中で公武合体派の中川宮や松平容保を襲い、天皇を長州へ移す計画があると白状した。
この計画がどこまで本当だったのかは、いまも分からない。伝わっているのはほとんど取り締まった側の記録で、拷問で引き出された自白でもある。尊攘派の側には、古高を奪い返す相談はしたが、京都焼き討ちのような計画は無かったとする見方もある。一方、志士たちが何らかの実力行使を考えていたことまで否定するのは難しい、という見方もある。

古高が捕らえられたことを知った志士たちは、その夜、三条小橋の旅館池田屋に集まった。長州、肥後、土佐などの尊攘派、20人から30人ほどとされる。新選組は集会の場所をつかみきれず、隊を二手に分けて鴨川沿いの旅館や料亭をしらみつぶしに探した。近藤の率いる10人ほどが池田屋を、土方の率いる20人あまりが別の候補の旅館を受け持った。夏の祇園祭の宵宮の前で、町は人出でにぎわっていた。
夜10時ごろ、近藤の隊が池田屋に行き当たった。会津藩の兵の到着を待たず、近藤は沖田総司、永倉新八、藤堂平助らわずかな人数を連れて中へ踏み込んだ。御用改めである、と声をかけると、2階にいた志士たちは刀を取って立ち上がった。灯りの少ない狭い階段と部屋での斬り合いになった。外へ逃げようとした者は表と裏を固めた隊士に斬られた。沖田は戦いの途中で倒れ、藤堂は額を割られた。近藤がのちに故郷へ送った手紙には、刀は折れ、敵は多く、激しい戦いだったと書かれている。やがて土方の隊が駆けつけ、会津や桑名の兵も周りを囲んだ。

戦いは深夜まで続いた。肥後の宮部鼎蔵は傷を負って自害し、吉田松陰の門下で将来を期待されていた長州の吉田稔麿、土佐の北添佶摩、望月亀弥太らが命を落とした。その場や逃げる途中で死んだ者は10人ほど、捕らえられた者は20人を超えたとされる。長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)は早めに来て人が集まらないので一度外へ出ていて難を逃れた、と本人は後に語っている。新選組の側でも、深手を負って数日のうちに死んだ隊士がいた。
翌日、新選組は隊列を組んで屯所へ引き上げ、京の人々はその姿を見物した。幕府と会津藩は彼らに褒美の金を与えた。それまで「壬生浪」と陰口をたたかれていた浪士の集団は、この夜を境に、京都の治安を担う武闘集団として名を轟かせることになる。
長州藩では、多くの同志を失ったことへの怒りが一気に燃え上がった。藩内の慎重論は押し流され、藩の兵が京都へ向けて進んだ。翌月の7月19日、長州軍は御所の門を攻め、会津・薩摩の兵と激しく戦って敗れた(禁門の変)。御所に向けて発砲した長州は朝敵とされ、幕府は長州征討の軍を起こす。京都の町は戦火で広く焼けた。

池田屋事件が歴史に与えた影響については、二つの見方が語られてきた。有能な志士を多く失ったことで明治維新は1年遅れた、とする見方と、長州を暴発させ、幕府と長州の対立を決定的にしたことで、かえって倒幕への動きを早めた、とする見方である。どちらも後の時代から見た評価で、確かめようはない。確かなのは、この夜から禁門の変、長州征討へと、京都の政局が一気に武力の争いへ傾いていったことである(物語「幕末」)。
池田屋の建物は残っていないが、跡地には碑が立っている。新選組は、この後も幕府の側で戦い続け、鳥羽・伏見の戦いから会津、箱館へと敗走していく。池田屋の夜は、その短い栄光の頂点だった。