薩英戦争

概要
生麦事件の報復。鹿児島は焼かれたが、薩摩は攘夷の不可能を悟り、英国に接近していく。
場所
31.60°N 130.56°E · 日本・鹿児島県(薩摩藩の城下町)
本文
発端は前年の生麦事件だった。文久2年(1862年)8月、江戸から帰る島津久光の行列が、横浜に近い生麦村で馬に乗ったイギリス人4人と行き合った。行列を乱したとして藩士が斬りつけ、商人のリチャードソンが死に、2人が重傷を負った。
イギリスは幕府と薩摩の両方に責任を問うた。幕府には謝罪と賠償金10万ポンドを求め、幕府は文久3年5月にこれを支払った。薩摩には、下手人を捕らえて処刑すること、被害者の遺族などへ2万5000ポンドを払うことを求めた。薩摩は応じなかった。下手人は行方知れずだ、と言い張った。

文久3年6月、キューパー提督の率いるイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入った。交渉は数日続いたが、まとまらない。7月2日(1863年8月15日)の朝、イギリス側は談判の材料として、湾内に停泊していた薩摩の蒸気船3隻を拿捕した。このとき船に乗っていて捕らえられたのが、のちに大阪の財界を率いる五代友厚と、明治の外交を担う寺島宗則である。
正午ごろ、薩摩の砲台が一斉に火を噴いた。この日は暴風雨で、イギリス艦は不意を突かれた。旗艦ユーライアラスには砲台の弾が命中し、艦長と副長が同じ一発で戦死している。準備を整えて反撃に移ったイギリス艦隊は、新式のアームストロング砲で砲台を潰し、拿捕した3隻を焼き、城下町に砲弾を撃ち込んだ。
町は火に包まれた。強風にあおられて燃え広がり、城下の一角と、薩摩藩が力を注いできた集成館の工場群が焼けた。2日間の砲撃戦のあと、艦隊は弾薬と燃料の不足、損傷のため湾を出た。イギリス側の死傷者は60人を超え、死者は十数人とされる。薩摩側は、兵の戦死は少なかったが、町の被害が大きかった。
どちらが勝ったのかは、いまも見方が分かれる。薩摩は艦隊を追い払ったと受け止めた。イギリスでは、民間人の住む町を焼いたことが議会で問題にされた。ただ、砲台の旧式の大砲が新式の艦砲にまったく歯が立たなかったことは、戦った薩摩の者がいちばんよく分かっていた。

薩摩には、もともと西洋の技術を取り込もうとする下地があった。先代の藩主島津斉彬は、反射炉や溶鉱炉を築き、ガラスや紡績まで手がける工場群を鹿児島に興していた。それでも、その成果の砲台は、イギリス艦の射程の長い大砲の前では役に立たなかった。自前で真似るだけでは追いつけない、という差を、薩摩はこの2日間で測ったことになる。
鹿児島での撃ち合いからおよそ1か月半後、京都では薩摩が会津と組んで、攘夷を唱える長州勢と急進派の公家を朝廷から追い出した(八月十八日の政変)。薩摩は国内では穏健な公武合体の立場を取りつつ、外国との戦いの後始末を進めていたことになる。

同じ年の秋、横浜で講和の談判が開かれた。薩摩は2万5000ポンドを支払うことに同意したが、金は幕府から借りたもので、結局返していない。下手人は探し出して処罰すると約束したが、実行されなかった。そして談判の席で、薩摩の使者はイギリスに軍艦の購入の仲介を頼んだ。
戦った相手から学ぶ、という切り替えは速かった。慶応元年(1865年)、薩摩は藩の留学生と使節あわせて19人を、国禁を破ってイギリスへ送り出す。五代友厚、寺島宗則、のちに初代文部大臣になる森有礼らが含まれていた。イギリスの側も、幕府よりも薩摩のような雄藩と付き合うほうが得だと考えはじめ、両者の距離は縮まっていく。
同じ頃、長州も外国と撃ち合っていた。文久3年5月、関門海峡を通る外国船を砲撃し、翌年、四国の連合艦隊に砲台を占領される(四国艦隊下関砲撃事件)。外国と実際に撃ち合った二つの藩が、どちらも同じ結論に行き着いた。攘夷は無理だ、ということである。

その二つの藩は、慶応2年、薩長同盟で手を結ぶ。撃ち合ってはじめて外国の力を知った薩摩の経験が、幕府を倒す側の力の出発点の一つになった。久光のもとで藩政の中枢にいた大久保利通らにとって、鹿児島が焼けたことは、攘夷から富国強兵へと舵を切る決定的な教訓になったのである。