できごと

天狗党の乱

Tengutō rebellion
AD1864年(元治元年)
重要度 3
天狗党の乱に関わる図版:Tenguto no ran
Tenguto no ran Wikimedia Commons Utagawa Kuniteru III · Public domain

概要

水戸の尊攘派が筑波山で挙兵し、幕府軍と戦って、京の慶喜を頼って中山道を西へ。雪の中を千人。越前で降伏し、慶喜は会わず、352人が斬られた。水戸藩は内部で殺し合って、維新に人を出せなかった。

場所

筑波山
36.23°N 140.11°E · 茨城県

本文

水戸藩は、徳川の御三家の一つでありながら、天皇を尊ぶ学問の本家でもあった。2代藩主の光圀が始めた歴史書の編纂から育った水戸の学問は、幕末には外国を打ち払えという尊王攘夷の思想の源になり、全国の志士に読まれた。藩主の徳川斉昭は、黒船来航のあと幕府の海防に関わり、攘夷を唱える人々の旗頭と仰がれた。だが斉昭は将軍の跡継ぎをめぐる争いに敗れ、安政の大獄で謹慎を命じられる。1860年、水戸の浪士たちが大老井伊直弼を討った桜田門外の変は、その怒りの爆発だった。

斉昭の右腕だった学者の藤田東湖は1855年の安政江戸地震で圧死し、斉昭自身も桜田門外の変の半年ほど後に死んだ。重しを失った水戸藩は、内部で激しく割れる。斉昭のもとで改革を進めた尊攘の激しい一派は、成り上がりの者たちが天狗のように鼻を高くしていると反対派から揶揄され、天狗党と呼ばれた。これに対し、古い家柄の重臣を中心とする保守の一派は、藩校の学生を多く抱えたことから諸生党と呼ばれる。両派は藩の実権を奪い合い、互いを憎んだ。

1864年(元治元年)3月27日、東湖の四男で23歳の藤田小四郎が、仲間とともに筑波山で兵を挙げた。はじめは60人ほどだった。幕府に攘夷の実行を迫るという名目で、町奉行の田丸稲之衛門を総帥に担ぎ、各地の浪士や農民も加わって、数百から千人ほどにふくれあがった。彼らは日光へ向かい、栃木の太平山にこもったが、軍資金を集めるために商家から金品を奪う者もおり、別動隊の一つは栃木の宿場を焼き払った。攘夷の志は、周りの村々には迷惑な乱暴者の群れとしか映らなかった。同じ年の京都では、6月に池田屋事件、7月に禁門の変が起き、尊攘の勢いは大きく傷ついていた。

禁門の変に関わる図版:Hamaguri rebellion
禁門の変Wikimedia Commons Yūzan Mori · Public domain

幕府は追討の軍を出し、水戸藩では諸生党の市川三左衛門らが実権を握って、天狗党の家族を捕らえ、牢に入れた。藩内の争いを鎮めるため藩主の名代として送られた支藩の殿様も、行きがかりで天狗党の側とみなされ、のちに切腹させられている。水戸の北東の港町那珂湊の周りで激しい戦いが続き、天狗党には、斉昭の信任の厚かった元家老の武田耕雲斎らも加わった。10月、那珂湊は落ち、多くが降伏した。

残った者たちは、耕雲斎を総大将に、京にいる一橋慶喜を頼ることにした。慶喜は斉昭の息子で、朝廷と幕府の間を取り持つ立場にあった。慶喜なら、自分たちの攘夷の志を朝廷に伝えてくれるはずだと信じたのである。11月1日、およそ千人が常陸の北の大子を出て、西へ向かった。下野、上野と進み、下仁田で高崎藩の兵を破り、信濃の和田峠で松本藩と高島藩の兵を破った。伊那の谷を下り、美濃へ出たころには、冬が深まっていた。統制は厳しく、道中の村々では、金を払って食べ物を求めたとも伝えられる。

小石川邸から京都へ出発する徳川慶篤の一行(国立国会図書館蔵『御上京道記』より)
小石川邸から京都へ出発する徳川慶篤の一行(国立国会図書館蔵『御上京道記』より)Wikimedia Commons 石川尚顕 · Public domain

だが、頼みの慶喜は、朝廷から追討を命じられ、自ら兵を率いて京を出ていた。行く手には彦根や大垣の兵が待つ。天狗党は道を北に変え、雪の深い越前の山へ入った。蠅帽子峠の険しい雪道で、馬も荷も捨てて山を越え、12月、越前の新保にたどり着いたときには、もはや戦う力は残っていなかった。慶喜が自分たちを討ちに来たと知った耕雲斎らは、追討軍の先鋒の加賀藩に降伏した。加賀藩は彼らを罪人ではなく客として扱い、寺に分けて泊め、食事と酒を与えたと伝えられる。

だが、身柄を引き取った幕府の扱いは苛烈だった。823人が、敦賀の海辺のニシンを蓄える蔵に押し込められた。窓の無い暗い蔵で、手足に枷をはめられ、粗末な食べ物しか与えられなかった。1865年(元治2年)2月、幕府の若年寄田沼意尊のもとで、352人が数度に分けて斬られた。耕雲斎と小四郎もその中にいた。耕雲斎らの首は水戸へ送られてさらされ、水戸に残された耕雲斎の妻や幼い子らも処刑された。残りの者の多くは島流しや追放になった。慶喜は、最後まで彼らに会わなかった。その苛烈さは諸藩の同情を集め、幕府の評判を落としたとされる。

1864年の幕末の砲兵隊
1864年の幕末の砲兵隊Wikimedia Commons Anonymous Japanese · Public domain

水戸藩の殺し合いは、そのあとも続いた。諸生党は天狗党の一族を処罰し続け、1868年、王政復古のあと朝廷の命を受けて戻ってきた天狗党の生き残りは、今度は諸生党を追い、その家族を斬った。諸生党を率いた市川三左衛門は捕らえられ、逆さ磔の刑に処されている。幕末の思想を生んだ水戸は、互いの殺し合いで有為の人材を失い、明治の新しい政府にほとんど人を送ることができなかった。

いま敦賀には、耕雲斎らを葬った塚と、彼らを祀る神社がある。押し込められたニシンの蔵の一つは移されて残され、記念の館として公開されている。水戸と敦賀の両方で、いまも慰霊が続けられている。

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