横井小楠
概要
熊本の儒者が福井に招かれ、『国是三論』で富国と開国を説いた。「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす」。新政府の参与になって、京で「耶蘇教を広める」と疑われて斬られた。
所属
日本本文
横井小楠は、1809年、熊本藩の中級の藩士の家の次男に生まれた。名は時存、小楠は号で、楠木正成を慕ってつけたとされる。藩校の時習館で学び、優秀な寮生を束ねる居寮長に選ばれた。1839年、藩の命令で江戸に学んだが、翌年、酒の席での騒ぎをとがめられて帰国させられ、謹慎を命じられた。

熊本に戻った小楠は、藩の家老の長岡監物らと、学問は経書の言葉を覚えることではなく、政治と暮らしの役に立つものでなければならないと説く研究会を作った。彼らは「実学党」と呼ばれ、藩の主流と対立した。小楠は自宅に塾を開き、若者たちを教えた。彼がめざしたのは、儒学が理想とする古代の聖王、堯と舜の政治だった。王が天下を私物にせず、民のための政治を行い、位を賢い者に譲った時代である。
ペリーの来航の前後(黒船来航)、小楠は中国で書かれた世界地理の書を読み、その考えを大きく広げた。アメリカでは、大統領は世襲ではなく、人々が賢い者を選び、ジョージ・ワシントンは位に執着せずに退いた。小楠は、それを堯舜の禅譲の理想に近いものと受け止めた。鎖国を守ることは、天地の道理に背き、世界の公の道を塞ぐことだと考えるようになった。

1858年、越前福井藩の藩主松平春嶽は、小楠を師として福井に招いた。小楠は、藩の財政の立て直しに取り組み、弟子の三岡八郎(のちの由利公正)とともに、藩が資金を出して農民の生糸などの産物を買い上げ、外国との交易で売る仕組みを作った。1860年には『国是三論』をまとめ、富国、強兵、士道の三つを論じた。国を富ませる道は交易にあり、鎖国は道に反する。西洋の技術と制度は学ぶべきだが、その根にある道徳は儒学の道によって立てる、というのが彼の考えだった。
1862年、春嶽が幕府の政事総裁職に就くと、小楠はその顧問として江戸に出た。参勤交代の緩和など、幕府の政治を改める案を出し、文久の改革を支えた。だがこの年の12月、江戸の熊本藩士の家で酒を飲んでいたとき、刺客に襲われた。小楠は刀を取りに一人でその場を離れ、仲間を置いて逃げたとみなされた。熊本藩は、武士にあるまじき「士道忘却」だとして、彼の知行を取り上げ、士籍を剥奪した。
それから数年、小楠は熊本の郊外の沼山津の家「四時軒」に引きこもって暮らした。それでも、彼の考えを聞きに多くの人が訪れた。坂本龍馬も足を運んだ。幕臣の勝海舟は、のちに、自分はこの世で恐ろしい人物を二人見た、横井小楠と西郷隆盛だと語っている。1866年、小楠は二人の甥をアメリカに留学させた。そのとき贈った詩で、堯舜と孔子の道を明らかにし、西洋の技術を尽くせば、富国や強兵にとどまらず、大義を世界に広めることができる、とうたった。
1867年の末に王政復古が成ると、新政府は小楠を京に呼んだ。熊本藩は渋ったが、岩倉具視らの強い求めで、1868年、60歳の小楠は参与として新政府に加わった。五箇条の誓文の最初の案を書いた由利公正は、小楠の弟子だった(五箇条の御誓文)。だが小楠は病を抱えており、仕事は思うに任せなかった。
1869年1月5日、御所から帰る途中、京都の寺町で、小楠の乗った駕籠が6人の刺客に襲われた。小楠は駕籠を出て短刀で応じたが、斬られて死んだ。刺客たちの残した文は、小楠が外国と通じ、キリスト教を広め、国を共和の政治にしようとしている、と非難していた。小楠はキリスト教を広めようとはしていなかったが、西洋を知る者は誰もが耶蘇教徒に見える人々にとって、彼は格好の標的だった。同じ年の秋、軍制の改革を進めていた大村益次郎も、京都で襲われ、その傷がもとで死んでいる(大村益次郎の暗殺)。
小楠は、まとまった著作をあまり残さなかった。その考えは、手紙と談話、そして彼のもとを訪れた人々の行動を通して、明治の国づくりに流れ込んだ。熊本の四時軒の跡には、いま記念館が建っている。