黒船来航

概要
蒸気軍艦4隻が浦賀沖に現れ、開国を迫った。200年余り続いた体制が外から揺さぶられる。
場所
35.25°N 139.72°E · 日本・神奈川県横須賀市
関わった人(3)
マシュー・ペリー1794年–1858年 · 当人阿部正弘AD1819年12月3日–AD1857年8月6日 · 老中首座ジョン万次郎AD1827年1月27日–AD1898年11月12日 · 幕府に呼ばれた(交渉の通訳は務めていない)本文
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)の夕方、江戸湾の入り口にあたる浦賀の沖に、4隻の黒い軍艦が姿を現した。率いていたのは、アメリカ海軍の東インド艦隊の司令長官マシュー・ペリーである。4隻のうち、旗艦サスケハナとミシシッピの2隻は蒸気船で、帆船の2隻を引きながら、煙を吐いて風に逆らって進んだ。
外国の船が日本に来ること自体は、初めてではなかった。18世紀の終わりからロシアやイギリスの船が日本の沿岸に現れ、通商を求めていた。幕府は1825年に異国船打払令を出して、近づく外国船を砲撃して追い払うよう命じた。しかし隣の清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことが長崎を通じて伝わると、1842年にこれを改め、外国船には薪や水を与えて穏便に帰らせることにした。1846年にはアメリカの軍艦が浦賀に来て通商を求めたが、幕府は断り、艦隊はそのまま帰っている。

ペリーの来航も、不意打ちではなかった。前年、長崎のオランダ商館長は、アメリカが艦隊を日本に送る計画を幕府に知らせていた。しかし幕府は、はっきりした備えをしないまま、その日を迎えた。鎖国の完成以来200年あまり、長崎のオランダと中国、対馬を通じた朝鮮などに限って外とつきあってきた体制が、正面から試されることになった。
アメリカが日本に求めたものは何だったのか。当時、アメリカの捕鯨船が太平洋で盛んに鯨を追っており、遭難した船員の保護や、水と食料の補給の場所が必要だった。アメリカは西海岸まで領土を広げたばかりで、太平洋を渡って中国と結ぶ蒸気船の航路も構想していた。蒸気船には石炭を積み込む中継の港が欠かせない。アメリカにとって日本は、貿易の相手である以上に、中国へ向かう道の途中にある島だった。

ペリーは、長崎へ回れという幕府の役人の求めをはねつけ、大統領フィルモアの国書を受け取らなければ兵を率いて江戸へ向かうと迫った。測量のための小舟を江戸湾の奥まで送り込み、圧力をかけた。幕府は6月9日、浦賀に近い久里浜に応接の場を設けて国書を受け取った。ペリーは返事を聞くため翌年また来ると告げ、10日ほどで江戸湾を去った。ペリーは日本に来る前に琉球の那覇に立ち寄って拠点とし、小笠原諸島にも足を延ばしていた。日本が要求をのまなければ、琉球を押さえることも考えていたとされる。その直後、将軍の徳川家慶が病で亡くなっている。
江戸の町は大騒ぎになった。蒸気船と、上等な茶の銘柄「上喜撰」をかけて、太平の眠りをさます上喜撰、たった四杯で夜も寝られず、と詠んだ狂歌がよく知られている。ただし、この狂歌は当時のものではなく、後の時代に作られた可能性が指摘されている。

対応にあたった老中首座の阿部正弘は、前例のない手を打った。アメリカの国書を訳して諸大名に示し、どう対応すべきか意見を求めたのである。幕臣だけでなく、町人からも意見書が出された。これまで政治の決定を独り占めにしてきた幕府が、自分だけでは決められないと認めたことになる。これが、大名たちや朝廷が政治に口を出すきっかけになった。
阿部は守りも固めた。江戸湾の品川沖に砲台を築く工事が始まり、大きな船を造ることを禁じた決まりも解かれた。土佐の漁師で、漂流してアメリカの捕鯨船に救われ、アメリカで教育を受けて帰国していたジョン万次郎も、江戸に呼ばれた。万次郎はアメリカの事情を幕府に伝えたが、アメリカに通じているのではないかと疑う声もあり、翌年の交渉の場で通訳を務めることは無かったとされる。

1854年の初め、ペリーは7隻の艦隊を率いて再び来航した。幕府は戦えば勝ち目がないと判断し、3月に日米和親条約を結んだ。下田と箱館の二つの港を開き、アメリカの船に薪や水、食料、石炭を与えること、下田に領事を置くことなどが決められた。交渉の合間に、ペリーは持参した贈り物を披露した。横浜の浜に線路を敷いて走らせた4分の1の大きさの蒸気機関車の模型や、電信の機械は、幕府の役人たちを驚かせた。この年、長州の若い武士吉田松陰は、下田でアメリカの船に乗り込んで海外へ渡ろうとし、断られて捕らえられている。
戦って負けた清の例があったことが、戦わずに国を開くという判断を支えた面がある。和親条約では、まだ自由な貿易までは認めていなかった。しかし1858年には、アメリカの総領事ハリスとのあいだで日米修好通商条約が結ばれ、本格的な貿易が始まる。大老の井伊直弼が天皇の許しを得ないまま調印したことは、幕府への激しい反発を招いた。

外からの圧力にどう向き合うかをめぐって、国内は開国か攘夷か、幕府か朝廷かで割れていった。黒船来航からわずか14年後の1867年、大政奉還で幕府は政権を朝廷に返す。4隻の船は、200年あまり続いた体制を揺さぶる最初の一撃になった。