堀田正睦
概要
蘭学好きの老中が、ハリスとの通商条約に朝廷の許可を取りに京へ行って、取れなかった。公家が反対し、孝明天皇が拒んだ。井伊が大老になって、許可なしで結んだ。堀田は退けられて佐倉に帰った。
所属
日本本文
1810年、下総佐倉藩主・堀田正時の子として江戸で生まれた。1825年に家督を継いで佐倉11万石の藩主となる。堀田家は、3代将軍家光の老中・堀田正盛の流れをくむ譜代の家柄である。

若い藩主は藩政の改革に取り組み、とりわけ西洋の学問に熱心だった。オランダの書物を読ませ、西洋式の砲術や兵制を取り入れ、周りから「蘭癖(オランダかぶれ)」と呼ばれるほどだった。1843年、江戸で蘭方医として名を上げていた佐藤泰然を佐倉に招いた。泰然はここに病院を兼ねた塾「順天堂」を開き、西洋式の外科手術を行って、多くの医師を育てた。
1841年、正睦は老中に任じられ、天保の改革を進める水野忠邦のもとで働いた。だが改革の行き詰まりの中で、1843年に職を退いた。
再び幕府の中枢に戻るのは、黒船来航から2年後の1855年である。老中首座として開国の対応を担ってきた阿部正弘は、溜間詰の大名たちの反発を和らげるため、首座の地位を開国に理解のある堀田に譲った。堀田は外国との事務を担当する老中となり、1857年に阿部が急死すると、名実ともに幕府の外交の責任者になった。

1856年、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任し、自由な貿易を認める通商条約を求めた。ハリスは江戸に出て将軍に直接会うことを強く要求し、1857年10月、ついに江戸城で13代将軍・徳川家定に謁見した。その数日後、ハリスは堀田の屋敷を訪ね、長い時間をかけて世界の情勢を説いた。蒸気船の発達で世界は狭くなった、イギリスはアヘン戦争で清を打ち負かし、次は日本に艦隊を向けるかもしれない、それより前にアメリカと穏やかな条約を結んでおくことが日本のためになる、と。堀田はその話に耳を傾け、通商を開くほかないと考えるようになった。
条約の交渉は、幕府の目付の岩瀬忠震らとハリスとの間で進められ、1858年の初めにはほぼ内容が固まった(日米修好通商条約)。しかし幕府の中にも諸大名の間にも、反対の声は根強かった。そこで堀田は、天皇の許し(勅許)を得ることで反対を抑えようと考えた。それまで幕府は外交を自分の判断で行い、朝廷に許しを求めることはなかった。勅許は形式的なもので、すぐに得られると堀田は見ていた。
1858年2月、堀田は自ら京に上った。勘定奉行の川路聖謨や岩瀬忠震を伴い、公家たちに世界の情勢を説き、贈り物も用意して工作を重ねた。関白の九条尚忠は幕府に協力的で、条約は幕府に任せるという勅答の案がまとめられかけた。
ところが、これに反発した中下級の公家88人が、3月12日、勅答の案の書き直しを求めて御所に押しかけ、座り込んだ。「廷臣八十八卿列参事件」と呼ばれるこの動きの中に、のちに明治の政府を動かす岩倉具視がいた。異国を嫌う孝明天皇の意向も強く、結局3月20日に下された勅答は、条約を認めず、御三家や諸大名の意見をよく聞いた上で改めて願い出よ、というものだった。堀田は勅許を得られないまま、4月に江戸へ戻った。
京にいた間、堀田は将軍の跡継ぎ問題でも動いたとされる。一橋慶喜を推す一橋派の大名たちの働きかけを受け、慶喜を跡継ぎとすることを朝廷に認めさせる道を探ったとも言われる。これは、紀州の徳川慶福を推す南紀派の反感を買った。
堀田が江戸に戻って間もない4月23日、南紀派の井伊直弼が大老に就いた。井伊は6月19日、勅許の無いまま日米修好通商条約に調印させ、跡継ぎを慶福に決めた。そして6月23日、堀田を老中から罷免した。条約に調印する方針を取ったのは、皮肉にも、勅許を求めて失敗した堀田ではなく、勅許を待たなかった井伊だった。堀田も井伊も開国が避けられないと考えていた点では変わらず、二人を分けたのは、朝廷との関係と、跡継ぎをめぐる派閥の違いだった。
罷免のあと、堀田は家督を子の正倫に譲って隠居した。井伊が安政の大獄で反対派を処罰したあと桜田門外で殺されると、幕府の方針は揺れ動き、1862年、堀田はかつての責任を問われる形で蟄居を命じられた。1864年、佐倉の城で死んだ。満53歳だった。
堀田の京への旅は、それまで政治の外に置かれていた朝廷を、外交という国の大事の決め手に引き出した。勅許が得られなかったことで、天皇の意思に背いて条約を結んだという非難が幕府に向けられ、尊王攘夷の運動が燃え広がっていく。開国を進めようとした堀田の手で、幕府を揺るがす火種がまかれたのである。
一方、佐倉に残した蘭学の種は育った。佐藤泰然の順天堂は、のちに東京に移って順天堂医院となり、今日の順天堂大学につながっている。佐倉は「西の長崎、東の佐倉」と並び称される蘭方医学の町になった。