人物

徳川慶喜

Tokugawa Yoshinobu
1837年 – 1913年(享年76・推定)
江戸幕府重要度 5

概要

最後の将軍。政権を自ら朝廷へ返し、鳥羽伏見の敗北後は戦わずに退いた。

関わったできごと(2)

大政奉還1867年11月9日(慶応3年10月14日) · 当人鳥羽・伏見の戦い1868年1月27日(慶応4年1月3日) · 旧幕府側

本文

1837年、江戸小石川の水戸藩の屋敷で、藩主徳川斉昭の七男として生まれた。生まれてまもなく水戸へ移され、斉昭の方針で、厳しい武芸と学問の教育を受けた。寝相を正すため、枕の両側に剃刀を立てて眠らされたという話が伝わる。

将軍としての徳川慶喜の肖像
将軍としての徳川慶喜の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1847年、11歳で一橋家の養子になった。一橋家は将軍の跡継ぎを出せる御三卿の一つで、早くから将軍の候補と見られていた。

1853年の黒船来航の後、病弱な13代将軍家定の跡継ぎをめぐって、幕府は二つに割れた。一橋慶喜を推す側には、父の斉昭、薩摩の島津斉彬、越前の松平春嶽ら、外国に対抗できる賢い将軍を求める大名がいた。対立する側は、血筋の近い紀州の徳川慶福を推した。1858年、大老の井伊直弼が慶福を跡継ぎに決め、慶福は14代将軍家茂となる。慶喜は、勅許を得ずに条約を結んだ井伊を江戸城でとがめたため、安政の大獄の中で隠居・謹慎を命じられた。

宮中服姿の徳川慶喜
宮中服姿の徳川慶喜Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1860年の桜田門外の変で井伊が殺されると、謹慎は解かれた。1862年、薩摩の島津久光が朝廷の使者を伴って江戸に乗り込み、改革を迫ると、慶喜は将軍の後見の職に就いた。

以後、京に移り、朝廷と幕府の間に立って政治を担う。1864年には朝廷の御所を守る総督となり、同じ年の禁門の変では、自ら御所の守りを指揮して長州の軍を退けた。

禁門の変に関わる図版:Hamaguri rebellion
禁門の変Wikimedia Commons Yūzan Mori · Public domain

同じ年の暮れ、故郷の水戸の尊王攘夷派、天狗党が、慶喜を頼って京へ向かってきた(天狗党の乱)。慶喜は自らその討伐に出て、降伏した天狗党の者たちは幕府の手で350人余りが処刑された。故郷の旧臣たちを見捨てたとして、のちまで批判される。この頃、のちの実業家渋沢栄一が一橋家に仕えはじめている。

1866年、第二次長州征討(第二次長州征討)のさなかに家茂が大坂城で死んだ。慶喜は徳川家を継いだが、将軍職はすぐには受けず、5か月近くたってから就いた。周りから請われる形を作り、自分の立場を強めるためだったといわれる。15代将軍である。その20日後、慶喜を信頼していた孝明天皇が急死した。

第二次長州征討に関わる図版:Operations map of the Second Choshu Expedition by Sakamoto Ryoma
第二次長州征討Wikimedia Commons Sakamoto Ryoma · Public domain

将軍としての在任はわずか1年ほどだったが、改革は速かった。フランス公使ロッシュの助言を受け、フランス式の軍の訓練、横須賀の製鉄所、老中を分野ごとの大臣のように分ける仕組みなどを進めた。1867年のパリの万国博覧会には、弟の昭武を代表として送った。随員の中に渋沢がいた。長州の木戸孝允は、慶喜の才を見て、家康の再来を見るようだと警戒したと伝えられる。

1867年の春には、大坂城でイギリス、フランス、オランダ、アメリカの公使と会見し、兵庫の開港を自ら約束した。通訳として同席したイギリスのアーネスト・サトウは、慶喜について、これまで見た日本人の中で最も貴族的な顔立ちの一人だったと書き残している。頭の回転が速く弁が立ち、気が変わりやすいとも見られ、幕臣の間でさえ本心がつかめない人と言われた。

最後の将軍。政権を自ら朝廷へ返し、鳥羽伏見の敗北後は戦わずに退いた。1867年10月、慶喜は政権を朝廷へ返上した(大政奉還)。朝廷には政治を動かす力が無く、新しい体制の中でも徳川が大きな力を保てると見込んだためと考えられている。だが12月の王政復古の大号令で、慶喜は新政府から外され、官職と領地の返上を求められた。

王政復古の大号令に関わる図版:Kyoto-gosho Ogakumonjo-3
王政復古の大号令Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

翌1868年1月、旧幕府軍は京へ向かい、鳥羽・伏見の戦いで薩摩・長州の軍とぶつかって敗れた。新政府軍の陣に錦の御旗が掲げられ、旧幕府軍は朝敵となった。大坂城にいた慶喜は、最後の一兵まで戦えと将兵を励ました直後の夜、ごく少数の側近と城を抜け出し、軍艦で江戸へ帰った。残された将兵は置き去りにされた。

江戸に戻った慶喜は、戦いを主張する家臣を退け、上野の寛永寺にこもって朝廷への恭順を示した。交渉は勝海舟と西郷隆盛に委ねられ、江戸城は戦わずに明け渡された(江戸無血開城)。会津や東北の諸藩、函館の旧幕臣たちは、その後も戦い続けた。

江戸無血開城に関わる図版:Surrender of Edo Castle (Meiji Memorial Picture Gallery)
江戸無血開城Wikimedia Commons Yūki Somei 結城素明 (1875–1957) · Public domain

なぜ戦わなかったのか、慶喜は晩年まで多くを語らなかった。朝敵の汚名を着ることを避けたかった、水戸の家に伝わる尊王の教えに背けなかった、内戦を長引かせれば外国につけ込まれると考えた、などの見方がある。卑怯な逃亡か、国を割らないための決断か、評価はいまも分かれる。

その後は水戸、次いで駿府(静岡)で謹慎し、静岡で30年近くを過ごした。政治には一切かかわらず、写真、油絵、狩猟、釣り、囲碁、謡、自転車と、趣味に打ち込んだ。撮った写真が多く残っている。旧幕臣が訪ねてきても、会うことはまれだったという。

禁裏御守衛総督時代の慶喜
禁裏御守衛総督時代の慶喜Wikimedia Commons Anonymous Japanese · Public domain

1897年に東京へ移り、翌年、明治天皇に謁見した。かつての将軍と天皇が、和解の形を示した場だった。1902年には公爵となり、貴族院の議員にもなっている。晩年には渋沢の求めに応じて当時のことを語り、その聞き取りは『徳川慶喜公伝』にまとめられた。

1913年11月22日に死んだ。76歳。歴代の将軍の中で最も長く生きた。墓は徳川家の菩提寺ではなく、東京の谷中の墓地にあり、神道の形式で葬られている。武士の世の最後の将軍は、大正の時代まで生きて、自分の作らなかった近代日本を見届けた。

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