人物

久坂玄瑞

Kusaka Genzui
AD1840年 – AD1864年8月20日(享年24・推定)
日本重要度 3

概要

松陰の妹婿で、高杉と並ぶ弟子。英国公使館を焼き、下関で外国船を撃ち、八月十八日で追われ、禁門の変で京に攻め上って、鷹司邸で自刃した。24歳。松陰が「防長第一流」と書いた。

所属

日本

関わったできごと(1)

禁門の変1864年8月20日(元治元年7月19日) · 自刃

本文

久坂玄瑞は、1840年、長州藩の城下町萩で、藩に仕える医者の家に三男として生まれた。玄瑞は医者としての名である。幼いころから頭の良さで知られたが、10代の半ばまでに、母と、兄と、父を相次いで亡くし、天涯孤独の身で家を継ぐことになった。兄は蘭学に通じた医者で、外国の事情にも明るく、その影響もあって、少年の玄瑞は、外国の船が日本の近海に現れる時勢に強い関心を寄せていた。

久坂玄瑞之墓、同じ長州藩高杉晋作の墓のすぐ横にある、霊山護国神社、京都市左京区
久坂玄瑞之墓、同じ長州藩高杉晋作の墓のすぐ横にある、霊山護国神社、京都市左京区Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

1856年、16歳の玄瑞は九州を旅し、熊本で、尊王攘夷を唱える学者の宮部鼎蔵に会った。宮部は、萩にいる吉田松陰(吉田松陰)に学ぶよう勧めた。松陰は、アメリカの船に乗り込んで密航しようとして捕らえられ、萩の実家で謹慎していた。玄瑞は萩に戻ると、松陰に手紙を書き、外国を打ち払うべきだという自分の考えを熱く論じた。松陰の返事は厳しかった。君の議論は浮ついていて、本当に自分の身で考えたものではない、と。玄瑞が反論の手紙を書くと、松陰はまた容赦なく批判した。何度かのやりとりの末、玄瑞は松陰の塾、松下村塾の門をたたいた。激しい批判は、若者の本気を試すための、松陰なりの導き方だったとも言われる。

松陰は玄瑞の才を高く買い、長州の若者の中で第一流の人物だと評した。同じ塾の高杉晋作(高杉晋作)とともに、二人は塾の双璧と呼ばれた。冷静で弁の立つ玄瑞と、奔放で行動的な高杉は、互いに競い合う仲だった。1857年、松陰は自分の妹の文を玄瑞に嫁がせた。玄瑞は、師の弟子であり、義理の弟でもある身になった。

1858年、幕府の大老井伊直弼は、天皇の許しを得ないまま、アメリカとの通商条約に調印し、反対する者たちを厳しく罰し始めた(安政の大獄)。松陰は怒り、京都で尊王の志士たちを取り締まっていた老中の間部詮勝を待ち伏せて討つという計画を立てた。江戸や京都にいた玄瑞や高杉は、いまはまだその時ではないと、手紙で師を諫めた。松陰は激しく失望し、弟子たちを臆病者と責めた。1859年、松陰は江戸に送られ、処刑された(吉田松陰の刑死)。玄瑞は19歳だった。師の死は、彼の生き方を決めた。

師を失った玄瑞は、長州藩の尊王攘夷の運動の中心に立っていった。藩では、開国を前提に朝廷と幕府を結ばせようとする考えが力を持っていたが、玄瑞は各地の志士と交わり、藩の重臣たちに働きかけて、1862年、藩の方針を、外国との条約を破って攘夷を行うという方向へ転じさせた。この年の暮れには、高杉や、のちの伊藤博文、井上馨らとともに、江戸の品川の御殿山に建てられつつあったイギリスの公使館に火を放った。攘夷を言葉でなく行いで示そうとしたのである。

1863年、朝廷に迫られた幕府は、5月10日を攘夷の期限と定めた。幕府にとってはその場しのぎの約束だったが、長州藩は本気で実行した。その日、下関で、玄瑞が率いる一隊などが、関門海峡を通るアメリカの商船に砲撃を加え、続いてフランスやオランダの船も撃った。ほどなくアメリカとフランスの軍艦が報復に来て、長州の砲台や船は打ち砕かれた。外国の力の大きさを思い知らされる出来事だったが、京都の朝廷では、長州とそれに近い公家たちが勢いを強めていった。

だがその夏、事態は一変した。8月18日、薩摩藩と会津藩が手を結び、孝明天皇(孝明天皇)の意を受けて、長州藩とそれに近い公家たちを京都から追い出したのである(八月十八日の政変)。三条実美ら7人の公家は長州へ落ち延び、玄瑞もそれに従った。長州藩の中では、武力で京都に攻め上って立場を取り戻すべきだという声が強まった。

1864年6月、京都の池田屋に集まっていた尊王攘夷の志士たちが、新選組に襲われ、多くが殺された(池田屋事件)。玄瑞に松陰を勧めた宮部鼎蔵も、ここで命を落とした。怒った長州藩は、兵を率いて京都へ向かった。玄瑞は、まず朝廷に嘆願して許しを得るべきで、御所に兵を向けるのは早すぎると考えていたと伝えられる。だが、強硬な来島又兵衛らに押し切られ、玄瑞も兵を率いて京都に入った。

7月19日、長州の軍は御所の門に向かって攻めかかった(禁門の変)。来島は蛤御門で会津や薩摩の兵と戦って討たれた。玄瑞の隊は、御所の南の堺町御門のあたりで、越前などの兵と戦った。追いつめられた玄瑞は、門の近くの関白鷹司輔煕の屋敷に入り、鷹司に、ともに参内して長州の嘆願を天皇に取り次いでほしいと願ったが、聞き入れられなかった。屋敷は炎に包まれ、傷を負った玄瑞は、同志の寺島忠三郎とともにその場で自ら命を絶った。満24歳だった。長州の軍は敗れ、京都の町はこの戦いの火で広く焼けた。御所に向けて発砲した長州藩は「朝敵」とされ、幕府はその責めを問う兵を起こし、翌月にはイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国の艦隊が下関を砲撃した。

禁門の変に関わる図版:Hamaguri rebellion
禁門の変Wikimedia Commons Yūzan Mori · Public domain

玄瑞は、萩の妻の文に宛てて、多くの手紙を残している。家を空けて国事に奔走する夫の、妻を気づかう言葉がそこに記されている。文はのちに、姉の夫であった楫取素彦と再婚し、美和子と名を改めた。

松下村塾の若者たちは、多くが若くして死んだ。玄瑞の死から3年後には、高杉晋作も病で世を去った。外国を打ち払うという彼らの目標は、下関の砲撃で現実の前に崩れ、長州は、やがて外国の力を学び、薩摩と手を結んで幕府を倒す道を選んでいく。その維新の後を担ったのは、生き残った伊藤博文や山県有朋(山県有朋)たちだった。久坂玄瑞は、明治という時代を見ることなく、師の志を最も純粋な形で引き受けたまま、24歳で燃え尽きた若者として記憶されている。

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