吉田松陰
概要
松下村塾で高杉晋作・伊藤博文らを教えた。29歳で処刑されたが、教え子たちが維新を動かす。
所属
長州藩関わったできごと(1)
吉田松陰の刑死1859年11月21日(安政6年10月27日) · 当人本文
1830年、長州藩の城下町萩の郊外、松本村に生まれた。父は杉百合之助という下級の藩士で、畑を耕しながら子どもに書を読ませる家だった。5歳で叔父の吉田家に養子に入る。吉田家は藩の兵学、山鹿流の師範の家で、養父は翌年死んだため、幼くして家を継いだ。

教育は、もう一人の叔父の玉木文之進が引き受けた。厳しさで知られ、講義中に顔の虫を払っただけで、私事だと殴り飛ばしたという話が伝わる。11歳で藩主の毛利敬親の前で兵学を講義し、その出来に藩主が感心したという。
20歳を過ぎると、旅に出た。九州の平戸で海防の書を読み、江戸では佐久間象山に学ぶ。1851年の暮れ、友人と東北を旅する約束をしたが、藩の通行手形の発行が出発の日に間に合わなかった。約束を守るため、手形無しで出発する。脱藩とみなされ、武士の身分と家禄を失った。

この旅で、松陰は会津、新潟、佐渡、津軽を回り、津軽海峡を外国の船が行き来する様子を目にした。見たもの聞いたものを毎日書き留めた記録は『東北遊日記』として残る。生涯に書いた手紙、日記、意見書は膨大で、いまも全集にまとめられて読まれている。
1853年、黒船来航を浦賀で見た。象山の勧めもあり、海外へ出て自分の目で学ぶことを考えはじめる。長崎のロシア船を追ったが間に合わず、翌1854年3月、日米和親条約を結ぶため再来したペリーの艦隊が下田に停泊しているところへ、弟子の金子重之輔と小舟で漕ぎ寄せた。乗せてくれと頼んだが断られ、浜へ戻された。

自首して江戸の牢に入り、萩の野山獄へ移された。金子は別の牢で病死している。野山獄で、松陰は囚人たちに孟子を講じた。何年も出られずにいる囚人たちが聞き手で、書道や俳句が得意な者には逆に教わった。牢の中に学びの場ができ、看守まで聞きに来たと伝わる。この講義は『講孟余話』にまとめられた。
同じ獄中で書いた『幽囚録』には、国を守るため、北の蝦夷地を開き、朝鮮、満洲、台湾、ルソンにまで手を伸ばすべきだという主張がある。のちの日本の対外膨張の思想の源の一つとして、批判的に取り上げられることが多い。

1855年に出獄し、実家で謹慎の身となる。叔父が開いていた私塾を引き継ぎ、実家の敷地の小屋で教えた。松下村塾である。のちに増築したが、はじめは八畳一間だった。松陰が実際に教えたのは2年余りにすぎない。
教え方は、講義というより一緒に読んで議論する形だった。身分を問わず入れた。足軽の家の伊藤博文も、さらに低い身分の山県有朋もいる。上士の家の高杉晋作とは、互いに張り合わせるように育てた。弟子の一人ひとりに長所を見つけて手紙で書き送り、褒めて伸ばしたと伝わる。
思想は尊王攘夷で、一君万民、つまり天皇の下では皆が等しい、という考えを取った。身分制を否定する含みがあり、教え子たちが身分を越えて動く根拠になった。
1858年、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を結ぶと、松陰は激しく反発した。条約を進めた老中の間部詮勝を討つ計画を立て、藩に武器の貸し出しまで願い出る。藩は危険視し、再び野山獄へ入れた。弟子の多くも、あまりの過激さに距離を置いた。
1859年、井伊直弼の下で安政の大獄が進むなか、江戸へ呼び出された。取り調べの本筋は、別の志士との関わりについてだった。だが松陰は、問われてもいない老中暗殺の計画を自分から述べた。誠意を尽くせば相手に通じると考えていたとされる。これが死罪の決め手になった。
処刑の前日、牢の中で遺書『留魂録』を書き上げた。冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の歌を置く。人の一生には長短にかかわらずそれぞれに四季がある、自分は29歳だが実りの時を迎えた、という一節もある。安政6年10月27日、吉田松陰の刑死。29歳だった。
翌年、桜田門外の変で井伊直弼が討たれる。弟子の高杉は奇兵隊を作り、久坂玄瑞は禁門の変で死に、伊藤と山県は明治の国家を動かした。過激な行動家だったのか、教育者だったのか、評価は一つに定まらない。戦前には忠君の模範として持ち上げられた。門下からは、伊藤と山県という二人の総理大臣が出ている。ただ、2年余りの小さな塾から、これだけの人が出たことは動かない事実である。
遺体は江戸の小塚原の刑場近くに葬られたが、1863年、高杉らが世田谷の若林へ改葬した。その地にはのちに松陰神社が建てられている。松陰は号で、通称は寅次郎。名を変えながら旅し、牢に入り、書き続けた生涯は30年に満たない。
獄中で家族に宛てた歌「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何と聞くらん」も、よく知られている。晩年には、藩や大名には頼れない、在野の志ある者が立ち上がるほかない、という「草莽崛起」の考えを弟子への手紙で説いた。身分の無い者が政治を動かすという発想は、奇兵隊のような身分を混ぜた軍につながっていく。