大村益次郎
概要
周防の村医者が蘭学で兵学を学び、長州の軍を作り直し、第二次長州征伐で幕府軍を破り、上野の彰義隊を一日で潰した。徴兵制と鎮台を設計して、京で襲われて死んだ。靖国神社の銅像は彼。
所属
日本関わったできごと(1)
大村益次郎の暗殺AD1869年10月8日(明治2年9月4日) · 襲われた本文
大村益次郎は1825年、周防国吉敷郡鋳銭司村(いまの山口市)に、村医者村田孝益の子として生まれた。幼名は宗太郎、のちに蔵六と名乗った。家を継いで医者になるため、17歳ごろから近くの蘭方医のもとでオランダ語と医学を学び、豊後日田の広瀬淡窓の私塾咸宜園で漢学を修めた。1846年、大坂の緒方洪庵の適塾に入った。全国から秀才が集まる蘭学の塾で、彼はたちまち頭角を現し、塾頭を務めた。後輩には福沢諭吉がいる。

1850年、父の求めで郷里に戻り、村医者を開業した。しかし評判はよくなかった。挨拶をされても素っ気なく、「お暑うございます」と言われて「夏は暑いのが当たり前です」と返したという話が残る。愛想のなさが災いして患者は少なかった。
転機は黒船だった。1853年、蘭学者を求めていた伊予宇和島藩主伊達宗城に招かれ、西洋の兵学書や築城書の翻訳を任された。藩の命で、提灯張りの職人あがりの嘉蔵とともに、オランダの書物だけを頼りに小型の蒸気船を造り、実際に動かしてみせた。1856年には江戸に出て私塾鳩居堂を開き、幕府の蕃書調所や講武所でも教えた。西洋の兵学を原書で読み解ける人物として、彼の名は知られるようになった。

1860年、故郷の長州藩が彼を正式に召し抱えた。藩の兵学の教授として、西洋式の軍制を教え、兵書を訳した。1863年、長州藩は攘夷を実行して下関で外国船を砲撃したが、翌年には英仏米蘭の四国艦隊に砲台を占領され、同じ年に京での戦いにも敗れた。藩の存亡の危機の中で、高杉晋作ら改革派が藩の実権を握ると、軍の立て直しが急務になった。1865年、藩命で大村益次郎と改名した彼は、その中心に据えられた。高杉晋作が身分を問わず兵を集めた奇兵隊などの諸隊を、彼は西洋式の銃と散兵の戦術で鍛え直した。武士でない農民や町人も、新しい銃を持てば一人前の兵になる、というのが彼の考えだった。
1866年、幕府は諸藩の兵を動員して長州を攻めた(第二次長州征討)。長州は四方の国境で迎え撃ち、大村は石見に向かう石州口の指揮をとった。兵を小さな組に分けて散開させ、物陰から射程の長いミニエー銃で一斉に撃たせた。旧式の装備で隊列を組んで進む幕府方の諸藩の兵は崩れ、長州軍は浜田藩の領内に攻め入った。浜田藩主は城に火を放って退いた。一藩の軍が、幕府の動員した大軍を各地で退けたこの戦いは、幕府の権威を決定的に損なった。

1868年、戊辰戦争が始まると、彼は新政府の軍事の責任者の一人として京に上り、江戸無血開城の後の江戸に送り込まれた。江戸ではなお旧幕臣の彰義隊が上野の寛永寺にこもり、新政府に従わなかった。5月15日、大村は彰義隊の討伐を指揮した。雨の朝に攻撃を始め、本郷の加賀藩邸の高台から佐賀藩のアームストロング砲で寛永寺を砲撃させ、夕方までに彰義隊を潰走させた。作戦をめぐっては、薩摩の海江田信義と激しく対立し、海江田は終生その恨みを忘れなかったと伝えられる。続く東北や箱館での戦いでも、彼は江戸や京にいて作戦を指図した。
1869年、新政府の兵部省で次官にあたる兵部大輔となり、軍制の実質的な責任者になった。彼が描いたのは、藩ごとの武士の兵ではなく、国民から兵を集める軍隊だった。大坂に兵学校と兵器工場を置く計画を進めた。こうした構想は武士の特権を奪うものとして、士族の強い反発を招いた。西国の士族がいずれ反乱を起こすことを見越して、大坂に備えを置こうとしたとも言われる。
1869年9月4日、京都の木屋町の宿で、彼は刺客に襲われた。襲ったのは、彼の改革に反発した元長州藩士らだった。大村は浴槽に身を隠して一命は取りとめたが、脚の傷が悪化した。大坂の病院でオランダ人医師ボードウィンの治療を受け、脚の切断が必要とされたが、その許可が東京から届くまでに時間がかかり、手術は間に合わなかった。11月5日、敗血症で死んだ。満44歳だった。
彼の死後、構想は弟子や後継者に受け継がれた。1873年、徴兵令が出され、国民皆兵の軍隊が生まれた。1877年の西南戦争では、農民や町人から集めた政府の兵が、士族を中心とする西郷軍を破った。1893年、東京・九段の靖国神社の参道に、彼の銅像が建てられた。日本で最初の本格的な西洋式銅像とされる。像は上野の方角を向いている、と言われる。医者として学問を始め、近代日本の軍隊の設計者となった男は、その軍隊が生まれるのを見ることなく世を去った。