文久の改革
概要
島津久光が千人の兵で上京し、勅使を連れて江戸に来て、幕府に人事を飲ませた。一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に。参勤交代を三年に一度に緩め、大名の妻子を帰した。外様が幕政を動かした最初。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(2)
島津久光AD1817年12月2日–AD1887年12月6日 · 押し込んだ松平春嶽AD1828年10月10日–AD1890年6月2日 · 政事総裁職本文
1860年、大老の井伊直弼が江戸城の桜田門外で殺された(桜田門外の変)。安政の大獄で反対派を力で抑えてきた幕府は、その中心を失う。幕府は朝廷と手を結ぶことで立て直そうとし、1862年の初め、孝明天皇の妹の和宮が将軍家茂に嫁いだ。それでも、外国との条約に反発する攘夷の声は収まらなかった。
この情勢に乗り出したのが、薩摩の島津久光である。久光は藩主島津忠義の父で、藩主でも家老でもなかったが、「国父」と呼ばれて藩の実権を握っていた。兄の島津斉彬は、生前、朝廷と幕府と有力な大名が力を合わせて国を動かす道を描いていた。久光はその遺志を継ぐと称し、朝廷の力を借りて幕府の政治を改めさせようと考えた。

1862年(文久2年)の春、久光はおよそ千人の兵を率いて鹿児島を発ち、京に入った。京では、久光の上洛を攘夷の挙兵の合図と見た薩摩の過激な藩士たちが、伏見の寺田屋に集まって決起しようとしていた。久光は鎮めるための藩士を送り、説得はやがて斬り合いになった。有馬新七ら、薩摩の藩士どうしが斬り合って多くが死んだ。久光が求めていたのは倒幕でも攘夷の決起でもなく、幕府の改革だった。この事件で久光は朝廷の信頼を得る。
朝廷は、公家の大原重徳を勅使として江戸へ送ることを決め、久光の兵がこれを守って江戸に下った。勅使が幕府に示した要求には、将軍が京に上ること、沿海の大きな藩の大名を政治に加えること、そして一橋慶喜と松平春嶽を重く用いることが含まれていた。慶喜と春嶽は、かつて将軍の跡継ぎ争いで井伊と対立し、安政の大獄で退けられた人たちである。幕府ははじめ渋ったが、やがて受け入れた。7月、徳川慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就いた。

二人のもとで、幕府の政治は大きく改められた。最も大きかったのは参勤交代の緩和である。閏8月、大名が江戸に来るのを三年に一度、滞在は百日ほどとし、江戸に置かせていた大名の妻子を国元に帰すことを許した。200年あまり続いた参勤交代の制度化の仕組みは、大名を江戸に縛りつけ、その財を使わせる幕府の最大の綱だった。それが一気に緩んだ。大名と家臣が去った江戸の町は人が減り、商いは寂れた。春嶽の相談役だった横井小楠の考えが、この改革に生かされたとされる。
ほかにも、西洋式の歩兵や騎兵を備える軍制の改革が始まり、洋学を教える蕃書調所は洋書調所と改められた。京の治安を守るために京都守護職が置かれ、会津藩主の松平容保がこれに就いた。のちに新選組を配下に置くことになる役目である。
幕府の内側でも、古いしきたりが見直された。大名や旗本の服装は簡素にされ、将軍に会うときの儀礼も軽くされた。この年には、幕府として初めて、留学生をオランダへ送ることも決まっている。のちに箱館で新政府軍と戦う榎本武揚や、哲学の言葉を数多く訳すことになる西周は、このとき海を渡った若者たちである。
改革を押し込んだ久光は、江戸からの帰り道、思わぬ事件を起こす。8月21日、横浜の近くの生麦村で、行列を横切ったイギリス人を薩摩の供の者が斬り、一人が死んだ(生麦事件)。この事件は翌年の薩英戦争につながった。

薩摩が江戸で幕府を動かしている間に、京では別の流れが強まっていた。長州藩はこの年、外国との条約を破棄して攘夷を断行すべきだという方針に転じ、尊王攘夷を唱える志士たちと結んで朝廷の中で力を伸ばした。将軍の上洛を約束させられた幕府は、翌1863年、京で攘夷の期限を約束させられることになる。久光の改革が開いた朝廷の発言力は、久光の思惑を越えて攘夷派に使われ、やがて八月十八日の政変で薩摩自らがそれを押し返すことになった。
文久の改革は、幕府が自ら行った改革ではあったが、その中身は外様の大名が朝廷の権威を借りて押しつけたものだった。外様が幕府の人事と制度を動かしたのは、これが初めてである。幕府の権威の衰えは誰の目にも明らかになり、政治の中心は江戸から京へ移っていく。改革を求めた久光自身も、のちには慶喜と対立して政治の主導権を失い、薩摩の舵取りは西郷隆盛や大久保利通の手に移っていった。