人物

松平春嶽

Matsudaira Shungaku
AD1828年10月10日 – AD1890年6月2日(享年61)
日本重要度 3

概要

越前福井の藩主。橋本左内と横井小楠を使い、慶喜を推して井伊に隠居させられ、文久の改革で政事総裁職に。幕府の側で公武合体を探り続けて、大政奉還のあとは新政府に入った。「幕末四賢侯」の一人。

所属

日本

関わったできごと(1)

文久の改革AD1862年(文久2年) · 政事総裁職

本文

松平春嶽、名は慶永。春嶽は号である。1828年、江戸城の田安屋敷で、御三卿の一つ田安家の当主の八男として生まれた。将軍家に連なる血筋だが、八男では家を継ぐ望みはない。ところが1838年、越前福井藩の若い藩主が急死すると、跡継ぎとして迎えられ、わずか11歳で32万石の大名になった。福井藩は親藩の名門だが、財政は借金で火の車だった。

松平春嶽
松平春嶽Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

若い藩主は、人に恵まれ、人を用いることを知っていた。側近の中根雪江らに支えられて倹約と借財の整理を進め、藩の学校である明道館を開いて人材を育てた。1849年には、藩の医師笠原良策の願いを受けて、牛痘による種痘を藩内に広めることを後押しした。のちに藩の財政を立て直す三岡八郎(由利公正)、若くして藩の学問と外交を担う橋本左内、熊本から招かれた思想家横井小楠。福井藩が幕末に重きをなしたのは、彼らを見出し、用いた春嶽の力によるところが大きい。

1853年、ペリーの黒船来航で日本が揺れた。春嶽は当初、外国を打ち払うべきだという攘夷の意見を持っていたが、左内らの影響を受けて、国を開いて交易し、力を蓄えるべきだという開国の考えに傾いていった。同じ頃、幕府では13代将軍家定の跡継ぎをめぐって争いが起きていた。病弱な将軍の後には、英明と評判の一橋家の慶喜(徳川慶喜)を立てて難局に当たらせるべきだ。春嶽は水戸の徳川斉昭や薩摩の島津斉彬とともにそう主張し、左内を京や江戸で奔走させた。これに対して、血筋の近い紀州の慶福を推す人々がいた。

松平春嶽
松平春嶽Wikimedia Commons 不明。 · Public domain

1858年、紀州派の井伊直弼が大老に就き、将軍の跡継ぎを慶福と決め、天皇の許しを得ないまま日米修好通商条約に調印した。春嶽は斉昭らとともに、決められた日でないのに江戸城へ押しかけて井伊を問い詰めたが、逆に処罰を受け、隠居と謹慎を命じられた。続く安政の大獄で、左内は捕らえられ、翌年、26歳で処刑された。春嶽は、最も頼りにした家臣を守れなかった。

1860年に井伊が桜田門外で暗殺されると、春嶽はやがて謹慎を解かれた。1862年、薩摩の島津久光が朝廷の使者を伴って江戸に乗り込み、幕府に改革を迫ると、慶喜は将軍の後見職に、春嶽は新設の政事総裁職に就いた。幕府の政治の中心に立ったのである。春嶽は横井小楠の意見を取り入れ、文久の改革を進めた。大名を苦しめてきた参勤交代を3年に1度に緩め、江戸に置かれていた大名の妻子の帰国を許した。幕府が自分の権威よりも、諸大名と力を合わせることを選んだ改革だった。

福井市立郷土歴史博物館前の松平春嶽像
福井市立郷土歴史博物館前の松平春嶽像Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

だが、京では攘夷を叫ぶ勢力が朝廷を動かしていた。1863年、将軍家茂とともに京に上った春嶽は、攘夷はできないと説いたが受け入れられず、朝廷と幕府の板挟みになった。彼は政事総裁職を投げ出し、許しも得ずに福井へ帰ってしまい、処罰を受けた。

その後も春嶽は、朝廷と幕府と有力な大名が力を合わせる道を探り続けた。1864年には、慶喜、島津久光、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城らとともに、朝廷の会議に加わったが、横浜の港を閉ざすかどうかで慶喜と久光が対立し、会議はすぐに崩れた。1867年にも、久光、容堂、宗城との四人で慶喜と話し合ったが、将軍となった慶喜に押し切られた。

1867年10月、慶喜は政権を朝廷に返上した(大政奉還)。12月の王政復古の夜、御所の小御所で開かれた会議で、岩倉具視や大久保利通らは、慶喜に官位と領地の返上を迫ることを主張した。春嶽は容堂とともに、慶喜をこの会議に呼ばずに罰するのは公平でないと反対したが、押し切られた。春嶽はその後も、慶喜と新政府との間を取り持とうとしたが、事態は戊辰戦争へと進んでいった。

明治の新政府で、春嶽は議定や民部卿、大蔵卿などの要職に就いた。新政府が最初に掲げた五箇条の御誓文の原案を書いたのは、福井藩の由利公正である。だが、実権は薩摩と長州の若い志士たちの手に移っており、春嶽ら旧大名の出番は多くなかった。1870年、春嶽は官職を退き、その後は政治の表舞台から身を引いた。晩年は著述や記録の整理に力を注ぎ、幕末の見聞を書き残した。1890年6月、東京で亡くなった。61歳だった。

春嶽は、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城とともに「幕末の四賢侯」と呼ばれる。いずれも開明的な大名として、幕府を倒すのではなく、幕府と朝廷と大名が手を携える形で国を立て直そうとした人々だった。その意味では、彼らの構想は、武力で幕府を倒した薩長の前に敗れたとも言える。だが、春嶽が藩の中から引き出した人材と、彼らが説いた公議の考え方、つまり広く意見を集めて政治を決めるという理念は、五箇条の御誓文の第一条に形を変えて受け継がれた。若き日の坂本龍馬が春嶽を訪ね、幕臣の勝海舟への紹介状を得たという話も伝わっている。自ら天下を動かすより、人を見出して世に送り出すことに長けた殿様だった。

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