大政奉還
概要
将軍が自ら政権を朝廷へ返した。武力討幕の名分を先に消す一手だったが、流れは止まらなかった。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
徳川慶喜1837年–1913年 · 当人本文
1866年、幕府は長州を討つために大軍を送り、敗れた(第二次長州征討)。戦いのさなかに14代将軍家茂が大坂城で病死し、幕府は将軍の死を理由に兵を引いた。全国の大名を動員して一つの藩を屈服させられなかったことで、幕府の武威は地に落ちた。その年の暮れに15代将軍となったのが、徳川慶喜である。
慶喜は手をこまねいていたわけではない。フランス公使ロッシュの助言を受けて、フランス式の陸軍を整え、老中に職務を分担させる内閣のような仕組みを作り、横須賀に製鉄所を建てた。慶応の改革と呼ばれる。慶喜の頭の良さと手際は、敵である薩長の側からも恐れられた。長州の木戸孝允が、慶喜を家康の再来と評したと伝えられるほどである。
一方、薩摩は長州と密かに手を結び(薩長同盟)、武力で幕府を倒す道を探りはじめていた。その間に立ったのが土佐藩である。土佐の後藤象二郎は、坂本龍馬らの構想を受けて、将軍が自ら政権を朝廷に返し、そのうえで大名や藩士から成る議会を開いて国の方針を決める、という案をまとめた。これを前藩主山内容堂の名で建白書にし、慶応3年10月3日、幕府に差し出した。龍馬が船の中でまとめたという「船中八策」がこの案のもとになったとよく言われるが、原本は残っておらず、後世に整えられた文書とみる研究者もいる。

慶喜はこの建白を受け入れた。10月13日、京の二条城の大広間に在京の諸藩の重臣を集めて意向を示し、翌14日、政権を朝廷に返すことを申し出る上表を出した。朝廷は15日にこれを認めた。家康が1603年に将軍となってから264年、鎌倉に幕府が開かれてから数えれば700年近く続いた武家の政権が、少なくとも形の上では、ここで朝廷に戻ったことになる。
同じ頃、薩摩と長州には、幕府を討てという天皇の命令、いわゆる討幕の密勅が下されていた。日付は13日と14日で、大政奉還とほとんど同じ日である。ただしこの密勅は、摂政の署名も天皇の自筆の承認も欠く異例の文書で、岩倉具視らが作った偽勅だとする見方も根強い。

慶喜の狙いは、武力討幕の名分を先に消すことにあった。政権を返してしまえば、討つ理由が無くなる。しかも朝廷には全国を治める役所も人もいないから、政務は当面、慶喜に任せるしかない。実際、朝廷は諸大名を集めて会議を開くまで、これまで通り政務をとるよう慶喜に命じている。そのうえで諸侯の会議で新しい体制を作れば、最大の領地と実力を持つ徳川家が中心に残る。
朝廷は諸大名に上京を命じたが、応じた大名はわずかだった。情勢を見極めようと、病気などを理由に様子見をする藩が多かったのである。慶喜は10月24日に将軍職の辞退も申し出たが、朝廷はその扱いを決めかね、しばらく宙に浮いたままになった。政権は返したが、受け取る側の準備が無い。その空白の2か月の間に、事態は薩長の思惑通りに動いていった。

慶喜のもとには、どんな体制を考えていたかを示す資料もある。幕臣の西周が書いた「議題草案」では、徳川家の当主が「大君」として行政を率い、大名による上院と藩士による下院を置くという、西洋の制度に倣った案が描かれている。政権を返すことは、徳川家が退くことではなく、新しい形で国の頂点に立つための一手だった。
計算としては筋が通っている。だから薩長は、それを潰す手を打った。武力討幕の準備を進めながら、岩倉具視らと宮中での政変を練った。土佐が求めた諸侯の会議は、なかなか開かれなかった。11月15日には、大政奉還の筋書きを描いた一人である坂本龍馬が、京の近江屋で暗殺されている(坂本龍馬暗殺(近江屋事件))。
この秋、東海道から近畿にかけての町々では、空から御札が降ったといって人々が「ええじゃないか」と囃しながら踊り狂う騒ぎが広がっていた(ええじゃないか)。世の中が変わる予感が、庶民の間にも渦巻いていた。

12月9日、王政復古の大号令の大号令が出された。その夜の会議で、慶喜に辞官納地、つまり内大臣の官職と領地の返上が命じられる。政権を返すだけなら呑めた。だが領地まで出せと言われれば、徳川家の家臣数万を養う手立てが無くなる。呑めない要求を出すことが目的だった。慶喜を挑発して先に手を出させ、朝敵として討つ。その筋書きは、翌月の鳥羽・伏見の戦いで現実になった。
大政奉還は、内戦を避けて政権を移す道を開いた一手として評価される一方、徳川家の延命策にすぎなかったとも言われる。どちらの面もあったのだろう。少なくとも、政権の主が交代するときに、自ら返上するという形をとった前例は、日本の歴史の中でこれが唯一である。