できごと

大政奉還

Taisei Hōkan
1867年11月9日(慶応3年10月14日)
重要度 5
ロシア帝国大英帝国清中央アジアの諸ハン国スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝Assamフィリピンカンボジアアイヌモシリアラカン1867年11月9日(慶応3年10月14日)京都
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概要

将軍が自ら政権を朝廷へ返した。武力討幕の名分を先に消す一手だったが、流れは止まらなかった。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

徳川慶喜1837年–1913年 · 当人

本文

1866年、幕府は長州を討つために大軍を送り、敗れた(第二次長州征討)。戦いのさなかに14代将軍家茂が大坂城で病死し、幕府は将軍の死を理由に兵を引いた。全国の大名を動員して一つの藩を屈服させられなかったことで、幕府の武威は地に落ちた。その年の暮れに15代将軍となったのが、徳川慶喜である。

慶喜は手をこまねいていたわけではない。フランス公使ロッシュの助言を受けて、フランス式の陸軍を整え、老中に職務を分担させる内閣のような仕組みを作り、横須賀に製鉄所を建てた。慶応の改革と呼ばれる。慶喜の頭の良さと手際は、敵である薩長の側からも恐れられた。長州の木戸孝允が、慶喜を家康の再来と評したと伝えられるほどである。

一方、薩摩は長州と密かに手を結び(薩長同盟)、武力で幕府を倒す道を探りはじめていた。その間に立ったのが土佐藩である。土佐の後藤象二郎は、坂本龍馬らの構想を受けて、将軍が自ら政権を朝廷に返し、そのうえで大名や藩士から成る議会を開いて国の方針を決める、という案をまとめた。これを前藩主山内容堂の名で建白書にし、慶応3年10月3日、幕府に差し出した。龍馬が船の中でまとめたという「船中八策」がこの案のもとになったとよく言われるが、原本は残っておらず、後世に整えられた文書とみる研究者もいる。

薩長同盟に関わる図版:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period
薩長同盟Wikimedia Commons Felice Beato · Public domain

慶喜はこの建白を受け入れた。10月13日、京の二条城の大広間に在京の諸藩の重臣を集めて意向を示し、翌14日、政権を朝廷に返すことを申し出る上表を出した。朝廷は15日にこれを認めた。家康が1603年に将軍となってから264年、鎌倉に幕府が開かれてから数えれば700年近く続いた武家の政権が、少なくとも形の上では、ここで朝廷に戻ったことになる。

同じ頃、薩摩と長州には、幕府を討てという天皇の命令、いわゆる討幕の密勅が下されていた。日付は13日と14日で、大政奉還とほとんど同じ日である。ただしこの密勅は、摂政の署名も天皇の自筆の承認も欠く異例の文書で、岩倉具視らが作った偽勅だとする見方も根強い。

邨田丹陵による「大政奉還図」(1935年、聖徳記念絵画館蔵)。明治天皇の生涯を描いた画群の一作であり、徳川慶光によって奉納された。しばしば旧暦10月13日に大広間で慶喜が各藩の重臣に大政奉還を布告している際の絵とみられがちであるが、これは前日の10月12日、慶喜が黒書院において、幕府役人や家門大名に対して大政奉還の伝達を行う際の様子を描いたものである。二条城大広間には松の障壁画が描かれており、『大
邨田丹陵による「大政奉還図」(1935年、聖徳記念絵画館蔵)。明治天皇の生涯を描いた画群の一作であり、徳川慶光によって奉納された。しばしば旧暦10月13日に大広間で慶喜が各藩の重臣に大政奉還を布告している際の絵とみられがちであるが、これは前日の10月12日、慶喜が黒書院において、幕府役人や家門大名に対して大政奉還の伝達を行う際の様子を描いたものである。二条城大広間には松の障壁画が描かれており、『大Wikimedia Commons 邨田丹陵, Tanryō Murata · Public domain

慶喜の狙いは、武力討幕の名分を先に消すことにあった。政権を返してしまえば、討つ理由が無くなる。しかも朝廷には全国を治める役所も人もいないから、政務は当面、慶喜に任せるしかない。実際、朝廷は諸大名を集めて会議を開くまで、これまで通り政務をとるよう慶喜に命じている。そのうえで諸侯の会議で新しい体制を作れば、最大の領地と実力を持つ徳川家が中心に残る。

朝廷は諸大名に上京を命じたが、応じた大名はわずかだった。情勢を見極めようと、病気などを理由に様子見をする藩が多かったのである。慶喜は10月24日に将軍職の辞退も申し出たが、朝廷はその扱いを決めかね、しばらく宙に浮いたままになった。政権は返したが、受け取る側の準備が無い。その空白の2か月の間に、事態は薩長の思惑通りに動いていった。

将軍としての徳川慶喜の肖像
徳川慶喜Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

慶喜のもとには、どんな体制を考えていたかを示す資料もある。幕臣の西周が書いた「議題草案」では、徳川家の当主が「大君」として行政を率い、大名による上院と藩士による下院を置くという、西洋の制度に倣った案が描かれている。政権を返すことは、徳川家が退くことではなく、新しい形で国の頂点に立つための一手だった。

計算としては筋が通っている。だから薩長は、それを潰す手を打った。武力討幕の準備を進めながら、岩倉具視らと宮中での政変を練った。土佐が求めた諸侯の会議は、なかなか開かれなかった。11月15日には、大政奉還の筋書きを描いた一人である坂本龍馬が、京の近江屋で暗殺されている(坂本龍馬暗殺(近江屋事件))。

この秋、東海道から近畿にかけての町々では、空から御札が降ったといって人々が「ええじゃないか」と囃しながら踊り狂う騒ぎが広がっていた(ええじゃないか)。世の中が変わる予感が、庶民の間にも渦巻いていた。

ええじゃないかに関わる図版:EeJaNaiKaScene
ええじゃないかWikimedia Commons Kawanabe Kyōsai · Public domain

12月9日、王政復古の大号令の大号令が出された。その夜の会議で、慶喜に辞官納地、つまり内大臣の官職と領地の返上が命じられる。政権を返すだけなら呑めた。だが領地まで出せと言われれば、徳川家の家臣数万を養う手立てが無くなる。呑めない要求を出すことが目的だった。慶喜を挑発して先に手を出させ、朝敵として討つ。その筋書きは、翌月の鳥羽・伏見の戦いで現実になった。

大政奉還は、内戦を避けて政権を移す道を開いた一手として評価される一方、徳川家の延命策にすぎなかったとも言われる。どちらの面もあったのだろう。少なくとも、政権の主が交代するときに、自ら返上するという形をとった前例は、日本の歴史の中でこれが唯一である。

動画(2)

130 大政奉還・幕末の文化 日本史ストーリーノート第13話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第130講「大政奉還・幕末の文化」
俺は裏を読む!じゃあ俺は裏の裏!大政奉還の裏側 〜将軍との頭脳戦〜【64-7 COTEN RADIO 西郷隆盛編7】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO大政奉還が慶喜側の先手だったこと、薩摩がそれをどう読み返したかを扱う

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