迷子しるべ石
概要
江戸では、迷子が出ると、見つけた町がその子を預かって養う決まりだった。人の多い日本橋のあたりでは、それが町の重い負担になる。安政4年、西河岸町の人々は一石橋のたもとに石の柱を建てた。右の面に「志らする方」、左の面に「たづぬる方」と彫ってある。探す者は子の年恰好や着物を書いた紙を左に貼り、心当たりのある者は右に貼る。役所の手を通さず、通りがかりの目を集める掲示板である。同じような石は湯島や浅草にもあった。一石橋のものは、いまも同じ場所に立っている。
場所
35.69°N 139.77°E · 日本・東京都中央区
本文
江戸は人の多い町だった。祭りの日、縁日、花見、そして火事。人混みの中で、あるいは火の手から逃げる途中で、親と子の手が離れる。迷子が出ると、どうするのか。江戸には決まりがあった。迷子や行き倒れを見つけた町が、その者を預かり、親や身元が分かるまで面倒を見る。子は町の番屋などに置かれ、町の者が交代で世話をした。
町は江戸の暮らしの単位だった。名主と家主たちが町の用を取り仕切り、木戸番や番屋の費用も、町の住人が出し合う町入用でまかなった。火事に備える江戸の町火消も、町ごとに抱える組織だった。迷子を養う費用も、預かった町の持ちになる。親が早く見つかれば負担は軽いが、何日も何か月も名乗り出なければ、そのぶん町の財布が痛んだ。

とりわけ重かったのが日本橋のあたりである。魚河岸があり、呉服の大店が並び、江戸じゅうから人が集まる。迷子もそれだけ多く出た。しかも親はなかなか見つからない。親のほうは、子がどこの町に預けられたかを知らない。町のほうは、どこの親が探しているかを知らない。同じ界隈の中で、探す者と預かる者がすれ違っていた。
安政4年(1857年)2月、西河岸町の人々は、一石橋の南のたもとに一本の石の柱を建てた。一石橋は日本橋川に架かる橋で、北のたもとに金座の後藤家、南のたもとに呉服所の後藤家の屋敷があった。五斗と五斗を合わせて一石になる、という洒落からこの名が付いたと伝えられる。橋の上からは日本橋をはじめいくつもの橋が見渡せ、人通りの絶えない場所だった。石が建つ2年前には安政江戸地震が町を揺らし、多くの家が焼けたばかりでもあった(安政江戸地震)。

石の正面には「満よひ子の志るべ」と大きく彫られている。右の側面には「志らする方」、左の側面には「たづぬる方」。使い方は簡単である。子を探す者は、左の面に紙を貼る。子の年のころ、着ていた着物の柄、顔や体の目印、はぐれた日と場所を書いておく。心当たりのある者、たとえば迷子を預かっている町の者は、右の面に「こういう子をどこの町で預かっている」と書いて貼る。通りがかった人がそれを読み、左右で合う紙があれば、知らせに走る。
この仕組みは役所を通さない。奉行所に届け出て書類が回るのを待つのではなく、橋を渡る大勢の人々の目を借りて、探す側と知らせる側を引き合わせる。石そのものは何もしない。ただ「ここを見ればよい」という場所を一つに決めているだけである。掲示板にとっては、それがいちばん大事なことだった。あちこちの壁に貼っても読まれないが、皆が知っている一か所に集めれば、紙は人の目に触れる。
同じような石は、江戸の人の集まる場所にほかにもあった。湯島天神の境内には、少し前の嘉永3年(1850年)に建てられた「奇縁氷人石」がある。氷人とは仲人のことで、迷子探しだけでなく、縁談の相手探しの貼り紙にも使われたと言われる。浅草寺の境内にも迷子の知らせの石があったとされる。貼られたのは迷子のことだけではなく、家出した者や、行方の分からなくなった奉公人を探す紙もあった。
人を探す必要は、迷子の多さだけから生まれたのではない。江戸の町は、奉公人や出稼ぎの者が絶えず出入りし、人が入れ替わる町だった。名前も顔も知らない者どうしが同じ通りを行き交う都市では、知り合いに頼む探し方は通じにくい。見知らぬ大勢に向けて書き、見知らぬ大勢が読む。一石橋の石は、そうした都市ならではの連絡の手段を、石という動かない形にしたものだった。
一石橋の迷子しるべは、いまも同じ場所に立っている。関東大震災も、戦災も越えた。橋は架け替えられ、頭の上を首都高速道路が走るようになったが、石は東京都の旧跡として残され、側面の文字もまだ読める。江戸の町にあった迷子石の中で、もとの場所に残る数少ない一本である。

百年あまり後、同じ形の仕掛けが、海の向こうで、別の道具を使って繰り返された。1983年、韓国のテレビ局KBSが朝鮮戦争で生き別れた家族を探す番組を放送すると(「離散家族を探します」)、局の前の広場に、探す人の書いた紙が壁一面に貼られた。石の柱がテレビの画面に替わっても、探す側と知らせる側を一つの場所に集めて会わせるという形は変わらなかった。