できごと

会津戦争

Battle of Aizu
1868年
重要度 4
会津戦争に関わる図版:Battle of Aizu at Wakamatsu castle by Tsukioka Yoshitoshi
Battle of Aizu at Wakamatsu castle by Tsukioka Yoshitoshi Wikimedia Commons Yoshitoshi · Public domain

概要

一か月の籠城の末に降伏した。白虎隊の自刃が語り継がれる。

場所

会津若松
37.49°N 139.93°E · 日本・福島県

本文

会津藩主の松平容保は、文久2年(1862年)、幕府に命じられて京都守護職に就いた。家臣の多くは、火中の栗を拾うことになると反対したが、徳川家を守れという藩祖以来の家訓に従って引き受けたと伝えられる。京都では新選組を配下に置いて尊攘派の志士を取り締まり、八月十八日の政変や禁門の変では長州を退けた。孝明天皇からは厚い信頼を寄せられていた。

その立場は、慶応2年の暮れ(西暦では1867年1月)に孝明天皇が亡くなり、翌年に幕府が政権を返したことで一変する。慶応4年(1868年)正月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、会津は朝敵とされた。長州から見れば、京都で仲間を斬り、藩を追い落とした張本人である。容保は会津に帰って恭順の意を示したが、新政府側は、容保の首を差し出すか、城を明け渡すことを求めて譲らなかった。

Itagaki Taisuke 1870
Wikimedia Commons 1870年頃の日本の写真家 · Public domain

東北の諸藩は、会津への寛大な処分を新政府に嘆願した。それが退けられ、新政府の参謀の世良修蔵が仙台藩士に殺されると、東北と越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府と戦う道を選んだ。だが、近代的な装備の差は大きく、同盟の諸藩は夏のうちに次々と降伏していった。

8月21日(西暦では10月6日)、新政府軍は会津の東の守りである母成峠を破った。板垣退助らが率いた軍は、予想を超える速さで進み、2日後の8月23日の朝には、早くも若松の城下に攻め込んだ。会津藩の主力は国境の守りに出ており、城下に残っていたのは老人や少年、女性が多かった。

Matudaira Katamori
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

このとき、多くの武家の女性や子どもが自ら命を絶った。家老の西郷頼母の屋敷では、母や妻、幼い娘たちを含む一族の女性たち21人が、城の足手まといにならないようにと自刃したと伝えられる。薙刀を手に戦った女性たちもいた。中野竹子らの一団は「娘子隊」と呼ばれ、竹子は銃弾を受けて倒れた。のちに同志社を開く新島襄の妻となる山本八重は、男装してスペンサー銃を手に城に入り、籠城戦を戦った。

白虎隊は、会津藩が年齢で分けた部隊のうち、16、17歳の少年からなる隊だった。その士中二番隊の隊士たちは、戸ノ口原の戦いに敗れて城下の東の飯盛山に逃れ、そこで20人が自刃を図った。1人だけ、飯沼貞吉が助けられて生き延び、19人が命を落とした。燃える城下を見て、城が落ちたと思い込んだからだと広く語られている。ただし、生き残った飯沼の後年の証言などから、城が落ちていないことを知りながら、敵に捕らえられるよりはと死を選んだのだとする見方もある。

会津戦争の主力部隊となった13歳の少年兵(谷乙猪)らを含む迅衝隊。中央に明治新政府軍参謀(迅衝隊総督)の板垣退助
会津戦争の主力部隊となった13歳の少年兵(谷乙猪)らを含む迅衝隊。中央に明治新政府軍参謀(迅衝隊総督)の板垣退助Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

鶴ヶ城(若松城)には、藩士とその家族、領民を合わせて数千人が立てこもった。新政府軍は周りの山に大砲を据えて、城に砲弾を撃ち込み続けた。城内では、女性たちが濡れた布団をかぶせて砲弾の火を消し、炊き出しや負傷者の看護に当たった。食糧も弾薬も尽き、援軍の望みも無くなった9月22日(西暦では11月6日)、容保は降伏した。籠城はおよそ1か月に及んだ。城の前には、降伏の印として白旗が掲げられた。

降伏の後、会津藩は領地を取り上げられた。明治2年に家名の再興は許されたが、新たな領地として与えられたのは、本州の北の果て、下北半島などの斗南藩3万石だった。名目は3万石でも、寒冷でやせた土地からの実際の収穫はそのはるかに下だったとされる。移り住んだ1万数千の人々は、冬の寒さと飢えに苦しみ、多くが命を落とした。明治4年の廃藩置県で斗南藩は消え、人々は各地へ散っていった。

廃藩置県に関わる図版:Modern Japan prefectures map in 1872
廃藩置県Wikimedia Commons Yoshida Togo (1860-1932) et al · Public domain

会津の人々の中からは、苦難を経て明治の社会で身を立てた者も少なくない。山川浩・健次郎の兄弟は、それぞれ陸軍の将官と東京帝国大学の総長になり、斗南で少年時代を過ごした柴五郎は陸軍大将に上った。容保は、晩年に日光東照宮の宮司を務め、孝明天皇から賜った宸翰を生涯肌身離さず持っていたと伝えられる。

戦死した会津藩士の遺体は、新政府の命令で長く埋葬を許されず、野ざらしにされたと語り継がれてきた。近年は、一部では埋葬が行われていたことを示す記録も見つかっている。いずれにしても、会津の人々にとってこの戦いの記憶は重い。薩摩や長州、とりわけ長州に対する複雑な感情は、150年を経たいまも、ときに話題に上る。

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