桜田門外の変
概要
大老が江戸城の門前で暗殺された。幕府の権威が取り返しのつかない形で傷つく。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
井伊直弼1815年–1860年3月24日(安政7年3月3日) · 暗殺された本文
安政7年3月3日の朝、江戸城桜田門の外。季節外れの雪が降っていた。上巳の節句で、大名たちは祝いのために登城することになっていた。彦根藩の上屋敷を出た大老井伊直弼の行列は、徒士や足軽を合わせて60人ほどだったとされる。
その前に、水戸の脱藩浪士17人と、薩摩の有村次左衛門の計18人が待ち構えていた。彼らは大名行列の見物人を装っていた。

発端は2年前にさかのぼる。井伊は勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍の跡継ぎも紀州の徳川慶福(後の家茂)に決めた。これに反対した水戸の徳川斉昭らを処分し、さらに尊王攘夷の志士や公家、大名に及ぶ大規模な弾圧を行った(安政の大獄)。吉田松陰や橋本左内が刑死し、斉昭は永蟄居を命じられる。この間に朝廷が幕府を通さず水戸藩へ直接下した勅書(戊午の密勅)を、幕府は返納させようとし、水戸藩内は返すか返さないかで割れた。返納に反対する者たちの一部が藩を抜け、井伊の命を狙うことになった。
行列が近づくと、一人が訴状を差し出すふりをして先頭に駆け寄り、斬りつけた。供の者がそちらに気を取られた隙に、駕籠を目がけて短銃が撃たれた。この一発で井伊は深手を負い、駕籠から出られなかったとする説がある。浪士たちが四方から斬りかかった。

ちょうどこの頃、条約の批准書を交わすための幕府の使節団が、アメリカへ向かう途上にあった。使節たちが大老の死を知ったのは、海を渡った先のことである。開国を決めた当人が、開国の使節が海の上にいる間に討たれたことになる。
雪のため、供の者は刀の柄に袋をかけ、鞘にも覆いをかけていて、すぐには抜けなかったと伝わる。それでも彦根藩士の中には奮戦して討ち死にした者もいた。襲撃は短い時間で終わり、有村次左衛門が駕籠から引き出した井伊の首を取った。

襲撃の指揮をとった水戸の関鉄之介は、その場を逃れて各地に潜伏したが、翌年捕らえられ、1862年に江戸で斬首された。有村は首を持って去る途中で深手のために動けなくなり、自刃した。井伊は満44歳だった。
井伊は藩主の十四男に生まれ、若い頃は跡継ぎになる見込みもなく、城下の小さな屋敷で十数年を過ごした。自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけたその家で、禅や国学、茶の湯に打ち込んだ。茶の湯の心得を説いた著作の中で、一度きりの出会いを大切にする「一期一会」という言葉を広めたことでも知られる。兄たちの死や養子入りが重なって藩主となったのは、30代の半ばのことだった。

衝撃は、人が死んだこと以上に、それが白昼、江戸城の門前で起きたことにあった。幕府は自分の膝元で最高権力者を守れなかった。しかも、討ったのは将軍家に最も近い御三家の一つ、水戸の浪士である。
幕府はこの事態をすぐには認めなかった。井伊は負傷して療養中ということにされ、死が公にされたのは閏3月の末である。大老が討たれたと公表すれば、彦根藩は主君の仇として水戸藩と争わねばならず、藩の断絶にもつながりかねない。御三家と譜代筆頭が争う事態を、幕府は避けたかった。それでも江戸の町では、事件はすぐに知れ渡った。

彦根藩は取り潰しこそ免れたが、2年後、幕府の方針が変わって井伊の政治が否定されると、10万石を削られた。彦根藩の中には、主君を守れなかった恨みと、幕府に見捨てられた思いが残り、戊辰戦争では早い段階で新政府の側についている。この年の3月18日には、凶事を断つために元号が万延に改められている。
以後、幕府は強権で反対派を押さえる道を取れなくなる。老中安藤信正らは、朝廷と幕府が手を結ぶ公武合体に転じ、孝明天皇の妹を将軍家茂の妻に迎えた(和宮降嫁)。だが、権威を借りるということは、自分の権威が足りないと認めることでもあった。1862年、その安藤も江戸城坂下門外で浪士に襲われ、傷を負って失脚する。

襲撃した浪士たちの多くは、その場で討ち死にするか、自首して処刑された。だが事件は、テロによって政局を動かせるという前例を残した。その後の数年、京では「天誅」と称する暗殺が相次ぐ。池田屋事件や禁門の変へ続く激しい時代が、ここから始まる。
井伊の評価も、時代によって大きく変わった。明治の新政府は尊王攘夷の側から生まれたため、長く井伊は勅許を無視し志士を弾圧した悪役とされた。一方で、開国を決断して国を危機から救った政治家として再評価する声も、明治の中頃から上がるようになった。横浜の掃部山公園に井伊の銅像が建てられたのは1909年である。