できごと

桜田門外の変

Sakuradamon Incident
1860年3月24日(安政7年3月3日)
重要度 5
大英帝国ロシア帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジアアイヌモシリ1860年3月24日(安政7年3月3日)江戸
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1860年3月24日(安政7年3月3日)の版図を描いています(12勢力)。

概要

大老が江戸城の門前で暗殺された。幕府の権威が取り返しのつかない形で傷つく。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

井伊直弼1815年–1860年3月24日(安政7年3月3日) · 暗殺された

本文

安政7年3月3日の朝、江戸城桜田門の外。季節外れの雪が降っていた。上巳の節句で、大名たちは祝いのために登城することになっていた。彦根藩の上屋敷を出た大老井伊直弼の行列は、徒士や足軽を合わせて60人ほどだったとされる。

その前に、水戸の脱藩浪士17人と、薩摩の有村次左衛門の計18人が待ち構えていた。彼らは大名行列の見物人を装っていた。

蓮田市五郎が描いた『桜田門外之変図』
蓮田市五郎が描いた『桜田門外之変図』Wikimedia Commons Hasuda Ichigoro · Public domain

発端は2年前にさかのぼる。井伊は勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍の跡継ぎも紀州の徳川慶福(後の家茂)に決めた。これに反対した水戸の徳川斉昭らを処分し、さらに尊王攘夷の志士や公家、大名に及ぶ大規模な弾圧を行った(安政の大獄)。吉田松陰や橋本左内が刑死し、斉昭は永蟄居を命じられる。この間に朝廷が幕府を通さず水戸藩へ直接下した勅書(戊午の密勅)を、幕府は返納させようとし、水戸藩内は返すか返さないかで割れた。返納に反対する者たちの一部が藩を抜け、井伊の命を狙うことになった。

行列が近づくと、一人が訴状を差し出すふりをして先頭に駆け寄り、斬りつけた。供の者がそちらに気を取られた隙に、駕籠を目がけて短銃が撃たれた。この一発で井伊は深手を負い、駕籠から出られなかったとする説がある。浪士たちが四方から斬りかかった。

井伊直弼(彦根城博物館所蔵)
井伊直弼(彦根城博物館所蔵)Wikimedia Commons 京狩野家第9代 狩野永岳 (Kanō Eigaku (1790~1867)) · Public domain

ちょうどこの頃、条約の批准書を交わすための幕府の使節団が、アメリカへ向かう途上にあった。使節たちが大老の死を知ったのは、海を渡った先のことである。開国を決めた当人が、開国の使節が海の上にいる間に討たれたことになる。

雪のため、供の者は刀の柄に袋をかけ、鞘にも覆いをかけていて、すぐには抜けなかったと伝わる。それでも彦根藩士の中には奮戦して討ち死にした者もいた。襲撃は短い時間で終わり、有村次左衛門が駕籠から引き出した井伊の首を取った。

慶応3年(1867年)、征夷大将軍時代の徳川慶喜
慶応3年(1867年)、征夷大将軍時代の徳川慶喜Wikimedia Commons Frederick Sutton · Public domain

襲撃の指揮をとった水戸の関鉄之介は、その場を逃れて各地に潜伏したが、翌年捕らえられ、1862年に江戸で斬首された。有村は首を持って去る途中で深手のために動けなくなり、自刃した。井伊は満44歳だった。

井伊は藩主の十四男に生まれ、若い頃は跡継ぎになる見込みもなく、城下の小さな屋敷で十数年を過ごした。自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけたその家で、禅や国学、茶の湯に打ち込んだ。茶の湯の心得を説いた著作の中で、一度きりの出会いを大切にする「一期一会」という言葉を広めたことでも知られる。兄たちの死や養子入りが重なって藩主となったのは、30代の半ばのことだった。

1860年当時、幕府の最も有力な顧問だった井伊直弼
1860年当時、幕府の最も有力な顧問だった井伊直弼Wikimedia Commons Kanō Eigaku · Public domain

衝撃は、人が死んだこと以上に、それが白昼、江戸城の門前で起きたことにあった。幕府は自分の膝元で最高権力者を守れなかった。しかも、討ったのは将軍家に最も近い御三家の一つ、水戸の浪士である。

幕府はこの事態をすぐには認めなかった。井伊は負傷して療養中ということにされ、死が公にされたのは閏3月の末である。大老が討たれたと公表すれば、彦根藩は主君の仇として水戸藩と争わねばならず、藩の断絶にもつながりかねない。御三家と譜代筆頭が争う事態を、幕府は避けたかった。それでも江戸の町では、事件はすぐに知れ渡った。

桜田門(2007年撮影)
桜田門(2007年撮影)Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

彦根藩は取り潰しこそ免れたが、2年後、幕府の方針が変わって井伊の政治が否定されると、10万石を削られた。彦根藩の中には、主君を守れなかった恨みと、幕府に見捨てられた思いが残り、戊辰戦争では早い段階で新政府の側についている。この年の3月18日には、凶事を断つために元号が万延に改められている。

以後、幕府は強権で反対派を押さえる道を取れなくなる。老中安藤信正らは、朝廷と幕府が手を結ぶ公武合体に転じ、孝明天皇の妹を将軍家茂の妻に迎えた(和宮降嫁)。だが、権威を借りるということは、自分の権威が足りないと認めることでもあった。1862年、その安藤も江戸城坂下門外で浪士に襲われ、傷を負って失脚する。

和宮降嫁に関わる図版:ちかこないしんのう
和宮降嫁Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

襲撃した浪士たちの多くは、その場で討ち死にするか、自首して処刑された。だが事件は、テロによって政局を動かせるという前例を残した。その後の数年、京では「天誅」と称する暗殺が相次ぐ。池田屋事件や禁門の変へ続く激しい時代が、ここから始まる。

井伊の評価も、時代によって大きく変わった。明治の新政府は尊王攘夷の側から生まれたため、長く井伊は勅許を無視し志士を弾圧した悪役とされた。一方で、開国を決断して国を危機から救った政治家として再評価する声も、明治の中頃から上がるようになった。横浜の掃部山公園に井伊の銅像が建てられたのは1909年である。

同じ時代のできごと

ザンジバルの丁子と奴隷市場AD1840年(オマーンのスルタンが遷都)リストと独奏会の誕生AD1840年ペニー・ブラックと郵便改革AD1840年5月6日フレーベルと幼稚園AD1840年アヘン戦争1840年ワイタンギ条約AD1840年2月6日鉄道と標準時AD1840年鳥の糞の時代AD1840年代
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1860年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →