人物

和宮

Princess Kazu
AD1846年7月3日 – AD1877年9月2日(享年31)
日本重要度 3

概要

仁孝天皇の娘、孝明天皇の妹。有栖川宮との婚約を解かれて将軍家茂に嫁いだ。「惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも」。家茂が死んで静寛院。江戸攻めのとき徳川家の存続を嘆願した。31歳で死に、家茂の隣に葬られた。

所属

日本

関わったできごと(1)

和宮降嫁AD1862年3月11日(文久2年2月11日) · 降嫁

本文

和宮は1846年、仁孝天皇の第八皇女として京都に生まれた。名は親子(ちかこ)。父の天皇は、彼女が生まれる4か月あまり前に亡くなっていた。異母兄が、のちの孝明天皇である。1851年、6歳のときに、有栖川宮熾仁親王との婚約が決まった。皇女として、京の公家社会の中で一生を送るはずだった。

その道を変えたのは、幕府の行き詰まりだった。黒船来航以来、幕府は朝廷の許しを得ないまま条約を結び、安政の大獄で反対派を押さえ込んだが、1860年の桜田門外の変で大老井伊直弼が殺されると、権威は大きく揺らいだ。そこで幕府は、天皇の妹を将軍に迎え、朝廷と幕府が一体であることを示そうとした。公武合体である。相手は14代将軍徳川家茂。和宮と同じ1846年の生まれだった。

黒船来航に関わる図版:UB Maastricht - Heine 1856 - Perry Commissionarissen
黒船来航Wikimedia Commons Wilhelm Heine · Public domain

和宮は拒んだ。孝明天皇も、妹は幼く、すでに婚約者がいると言って初めは断った。しかし幕府が、いずれ外国を退ける攘夷を実行すると約束したことで、天皇は降嫁を認める方へ傾いた。それでも和宮が首を縦に振らないので、天皇は、それなら自分が退位するとまで言ったと伝えられる。和宮はついに承諾した。その際、江戸に下っても御所の風儀を守ることを条件に求めた。

1861年秋、和宮の行列は中山道を通って江戸へ下った。警護や供の人数は膨大で、沿道の村々は人馬の負担に苦しんだ。翌1862年、江戸城で婚礼が行われた(和宮降嫁)。二人とも数えで17歳だった。

和宮降嫁に関わる図版:ちかこないしんのう
和宮降嫁Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

大奥での暮らしは、初めからぶつかり合いだった。和宮は御所の言葉と作法を守り、身の回りの女官も京から連れてきた。大奥の側は武家の作法を求めた。とりわけ、家茂の義母として大奥を束ねる天璋院篤姫とは折り合いが悪かったと伝えられる。初めての対面で、篤姫は上座に座り、和宮には敷物も用意されていなかったという話があるが、これは和宮の側の記録に残る話である。

夫婦の仲は良かったと言われる。家茂は穏やかな人柄で、和宮を気づかい、側室を置かなかった。1866年、長州との戦いのため大坂に出向いていた家茂は、20歳で病死した。出陣前、土産に何が欲しいかと尋ねられた和宮が西陣の織物を望み、その織物が家茂の遺品として届いたという話が伝わっている。和宮はそれを見て、「空蝉の唐織衣なにかせむ綾も錦も君ありてこそ」と詠んだとされる。夫がいてこその綾錦で、いまは何になろう、という歌である。和宮は髪を下ろし、静寛院宮と名乗った。

夫の死から2年後、和宮は兄の朝廷と、嫁ぎ先の徳川家とが戦う場面に立たされた。孝明天皇はすでに亡く、徳川慶喜は大政を返上したうえ鳥羽・伏見の戦いで敗れていた。1868年、新政府の軍が江戸へ迫ると、和宮は徳川家の存続を願う書状を、側近の女官に託して東征軍と朝廷に届けさせた。自分は徳川に嫁いだ身であり、家が滅びれば生きながらえるつもりはない、という覚悟を記したものと伝わる。篤姫も同じころ新政府軍に嘆願の書状を送っていた。仲の悪かった二人が、同じことのために動いたのである。江戸城は戦わずに明け渡された(江戸無血開城)。決め手は勝海舟と西郷隆盛の交渉だったが、皇女の嘆願が朝廷の空気を和らげた面もあったとみられる。

江戸無血開城に関わる図版:Surrender of Edo Castle (Meiji Memorial Picture Gallery)
江戸無血開城Wikimedia Commons Yūki Somei 結城素明 (1875–1957) · Public domain

1869年、和宮は7年ぶりに京都へ戻った。しかし1874年、甥にあたる明治天皇の勧めで東京に移り、麻布に住んだ。1877年、脚気を患い、箱根の塔ノ沢へ湯治に出かけたが、9月2日、そこで亡くなった。31歳だった。遺言により、京ではなく、芝の増上寺で家茂の隣に葬られた。降嫁のときに詠んだとされる「惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも」の歌のとおり、武蔵野の土に眠ることになった。

1958年、増上寺の徳川家の墓所が改葬されることになり、人類学者の鈴木尚らが遺骨を調べた。和宮の棺からは、若い男性を写した一枚のガラス板の写真が見つかったが、翌日には像が消えていて、それが家茂だったのか、元の婚約者の熾仁親王だったのかは分からないままになった、と鈴木は書き残している。遺骨の左手首から先が見つからなかったことも報告されたが、その理由は分かっていない。

和宮像(増上寺安国殿)
和宮像(増上寺安国殿)Wikimedia Commons Souka Kinmei · CC BY 4.0

和宮は、公武合体のために嫁がされた政略結婚の皇女として語られることが多い。だが、望まない縁組を受け入れた後、夫を大切にし、夫の家を守るために動き、最後は夫の隣に眠ることを選んだ。その歩みは、幕末の大きな流れに振り回されながら、自分で選び取った部分もあった人の生涯だった。

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