坂本龍馬暗殺(近江屋事件)
概要
大政奉還のひと月後に斬られた。下手人は今も定まらない。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
坂本龍馬1836年–1867年12月10日(慶応3年11月15日) · 当人本文
坂本龍馬は、天保6年(1836年)、土佐藩の郷士の家に生まれた。郷士は武士の中では下の身分で、上士との間には厳しい差別があった。江戸の千葉道場で剣を学び、土佐の尊攘派の結社に加わったが、文久2年(1862年)に藩を抜け出した。脱藩は重い罪である。その後、幕臣の勝海舟の門下に入り、神戸の海軍の塾で航海術を学んだ。
慶応元年(1865年)、龍馬は長崎で、薩摩藩の援助を受けて亀山社中を作った。船を動かし、物を運び、商いをする、商社と海運と私設の海軍を兼ねたような集団である。対立していた薩摩と長州の間に立ち、長州が薩摩の名義で武器を買えるよう取り計らった。慶応2年1月の薩長同盟では、その場に立ち会い、長州の木戸孝允の求めに応じて、約束の内容を記した書状の裏に、間違いないと朱で書き添えている。

その直後、龍馬は京都の伏見の寺田屋で幕府の役人に襲われ、深手を負った。入浴中に異変に気づいた妻のお龍が、裸のまま階段を駆け上がって知らせたと伝えられる。長州と幕府の戦い(第二次長州征討)では、自ら船を率いて関門海峡の戦いに加わった。
慶応3年、亀山社中は土佐藩の後ろ盾を得て海援隊となった。龍馬は、土佐の後藤象二郎とともに、将軍が自ら政権を朝廷に返すという構想を進めた。武力で幕府を倒そうとする薩長と、徳川家を残したい勢力の間で、戦わずに新しい体制へ移る道である。土佐藩の前藩主山内容堂がこれを将軍徳川慶喜に勧め、10月、大政奉還が実現した。

それからわずか1か月後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)の夜、龍馬は京都の河原町にあった醤油商・近江屋の二階にいた。陸援隊の隊長で同じ土佐出身の中岡慎太郎が訪ねてきていた。龍馬は風邪をひいていて、寒さを避けるため、土蔵ではなく母屋の二階に移っていたとされる。
そこへ数人の男が、十津川郷士を名乗って面会を求めた。取り次いだ従者の藤吉が斬られ、刺客は二階に駆け上がって、龍馬と中岡に斬りつけた。龍馬は額を深く斬られ、ほどなく息を引き取った。この日は龍馬の誕生日でもあり、数えで33歳、満31歳だった。中岡は重傷を負いながら2日ほど生き、襲撃の様子を語り残して亡くなった。

下手人は、いまも確定していない。事件の直後には、現場に残された刀の鞘や下駄から、新選組の仕業だと疑われた。のちに新選組の局長近藤勇が処刑された背景にも、この疑いがあったと言われる。海援隊の隊士たちは、少し前に海援隊の船と衝突事故を起こして賠償を巡ってもめていた紀州藩を疑い、紀州藩の重臣を襲撃している。
明治3年(1870年)、箱館で降伏して取り調べを受けていた元京都見廻組の今井信郎が、見廻組の佐々木只三郎らと近江屋を襲ったと供述した(箱館戦争の終結)。のちには別の元見廻組の隊士も実行者だったと名乗り出た。見廻組の犯行とする説が、いまでは最も有力である。ただし、証言どうしの細部が食い違うことや、誰が命じたのかが分からないことから、薩摩藩や土佐藩の黒幕を疑う説なども、長く唱えられてきた。

龍馬が新しい国の形を記したとされる「船中八策」は、長崎から京都へ向かう船の中で後藤に示したものと言われてきた。議会を開くこと、憲法にあたるものを定めることなどが並ぶ。ただし原本は残っておらず、近年は、のちの時代に整えられた文書ではないかとする研究も出ている。龍馬自筆の「新政府綱領八策」という文書は残っていて、似た内容を含んでいる。
龍馬は、明治のはじめにはそれほど知られた人物ではなかった。明治16年に高知の新聞に連載された坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』で広く知られるようになり、日露戦争の前には、皇后の夢に龍馬が現れて海軍を守ると告げた、という話が新聞で広まった。そして1960年代、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が、藩にとらわれず、日本の行く末を見通した自由な青年という像を決定づけた。いま私たちが思い描く龍馬の姿の多くは、こうした後世の物語によって作られている。