王政復古の大号令

概要
幕府も摂政関白も廃し、天皇のもとに新政府を置くと宣言した。慶喜には辞官納地が命じられる。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(2)
岩倉具視1825年–1883年 · 主導西郷隆盛1828年–1877年 · 主導本文
慶応3年(1867年)10月、15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返した(大政奉還)。だが朝廷には全国を治める役所も人もいない。政務は当面、慶喜に頼るしかなく、徳川家は800万石ともいわれる領地を持ったまま、新しい体制でも筆頭に座るつもりでいた。土佐藩や越前藩が思い描いていたのも、慶喜を加えた諸侯の会議である。
これを嫌ったのが、薩摩の大久保利通・西郷隆盛と、公家の岩倉具視だった。岩倉は長く洛北の岩倉村に蟄居していたが、この年の暮れに赦されて朝廷に戻る。彼らは、徳川家が力を残したまま新政府に入れば、名前が変わるだけで実態は変わらないと見ていた。

情勢はこの1年で大きく動いていた。慶応2年の暮れ(西暦では1867年1月)、幕府との協調を望んでいた孝明天皇が急死し、まもなく14歳の睦仁親王が皇位を継いだ。公武合体の要だった天皇がいなくなり、倒幕を唱える公家たちの処分も相次いで解かれた。大政奉還とほぼ同じ日には、薩摩と長州に幕府を討てと命じる「密勅」が出されたとされるが、正規の手続きを経ていない文書で、偽勅だとする見方も強い。11月には、薩長の間を取り持った坂本龍馬が京で暗殺されている(坂本龍馬暗殺(近江屋事件))。
12月9日の朝、朝議が終わって摂政二条斉敬らが退出すると、薩摩・尾張・越前・土佐・安芸の5藩の兵が御所の門を固めた。それまで御所の警備を受け持っていた会津・桑名の兵は外された。その中で、満15歳の明治天皇の名で発せられたのが王政復古の大号令である。

大号令は、将軍職だけでなく摂政・関白も廃止した。武家の側の幕府と、公家の側で何百年も続いてきた摂関の仕組みを、同時に消したことになる。代わりに総裁・議定・参与の三職を置き、総裁には有栖川宮熾仁親王が就いた。
議定には皇族・公家と、兵を出した5藩の藩主やその父が並び、参与には公家の下級の者と、各藩の藩士が加わった。西郷・大久保や土佐の後藤象二郎は参与である。身分の低い藩士が、正式に国政の席に着いたのはこれが初めてだった。文面には「諸事神武創業之始ニ原キ」とある。千年以上前の、まだ何の制度も無かった建国の時点に戻るという建前で、これは既存の制度を何でも作り直せるという意味でもあった。

その夜、御所の小御所で最初の会議が開かれた。慶喜は呼ばれていない。土佐の前藩主山内容堂は、慶喜をこの場に呼ぶべきだと主張し、数人の公家が幼い天子を担いで権力を握ろうとしている、と言い放ったと伝えられる。岩倉が、天子を幼いとは何事かと咎め、容堂は失言を詫びたという。越前の松平春嶽も容堂に同調し、会議は一度休みに入った。
休憩の間に、外で警備に当たっていた西郷が「短刀一本あれば片がつく」と言ったという逸話がある。言葉通りの記録があるわけではなく、後に語られた話だが、岩倉が刺し違える覚悟を見せて容堂側を黙らせた、という筋で広く伝わっている。

この会議に、当の慶喜はいない。いない者の処分を、その者に味方しそうな大名を数で抑えて決めたことになる。容堂や春嶽が反発したのは、徳川家への同情だけでなく、こうした手続きへの不信でもあった。再開した会議で、慶喜に内大臣の官職を辞し、領地を返上させる「辞官納地」が決まった。
ただし、この決定はそのままでは実行されなかった。慶喜は12月12日に二条城を出て大坂城へ移り、各国公使に対して外交は引き続き自分が担うと告げた。越前・尾張が間に入り、納地は徳川家だけでなく諸藩も負担を分け合う形に薄められていく。新政府の中でも、慶喜が議定として加わる道が再び見えはじめていた。
流れを変えたのは江戸だった。薩摩藩邸に集まった浪士たちが江戸市中で騒擾を繰り返し、12月25日、庄内藩などが薩摩藩邸を焼き討ちにした。知らせが大坂に届くと、旧幕府方の将兵は薩摩を討てと沸き立つ。慶喜は兵を京へ進めることを認め、翌年正月3日、鳥羽・伏見の戦いで戦いが始まった。
王政復古は、言葉の上では古い時代に戻ることを名乗った。実際に生まれたのは、それまで日本に無かった、天皇のもとに権力を集める中央集権の国家である。その骨組みは、五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県と、数年かけて組み上げられていく。復古を名乗った革命だった、と言われるのはそのためである。

もっとも、この日に作られた三職の体制そのものは長く続かなかった。翌年には官制の改革が重ねられ、閏4月の政体書で太政官を中心とする仕組みに置き換えられる。大号令が残したのは制度の中身よりも、摂関も将軍も置かない、天皇のもとで一から作り直す、という出発点の宣言だった。
この日の動きを、武力を背景にした宮中の政変と見るか、新しい国家の出発点と見るかは、立場によって評価が分かれる。ただ、御所の門を兵で固め、徳川家を外した場で次の体制を決めたという手順そのものは、史料の上ではっきりしている。