島津久光
概要
斉彬の異母弟で、藩主の父として薩摩を動かした。寺田屋で過激派を斬らせ、千人で上京し、生麦で英国人を斬られ、薩英戦争になった。倒幕には最後まで反対で、廃藩置県に怒って一晩花火を上げた。
所属
日本関わったできごと(1)
文久の改革AD1862年(文久2年) · 押し込んだ本文
島津久光は1817年、薩摩藩主島津斉興の子として鹿児島に生まれた。母は斉興の側室お由羅で、正室の子である兄の斉彬とは8歳違いの異母兄弟だった。若くして一門の重富島津家を継ぎ、学問を好んで、国学や和歌、歴史に通じた。

藩主の座をめぐり、家中は二つに割れた。開明的で幕府や諸藩にも名の知られた斉彬を推す者と、斉興とお由羅の子である久光を推す者である。斉彬派はお由羅が斉彬の子らを呪い殺そうとしていると疑い、お由羅を除こうと動いた。1849年、これが発覚すると、斉興は斉彬派を厳しく処分し、切腹や遠島に処された者は数十人に及んだ(お由羅騒動)。久光本人がこの争いにどこまで関わったかは分からない。結局、幕府の働きかけもあって1851年に斉彬が藩主となり、久光は兄に重く用いられた。
1858年、斉彬は急死した。遺言により、久光の長男忠義(茂久)が藩主を継いだ。翌年に父斉興が死ぬと、久光は藩主の実父「国父」として藩の実権を握った。斉彬の路線を継ぐ若い藩士の集まり「精忠組」の中心にいた大久保利通は、久光の囲碁の相手を務める寺の僧を通じて近づき、信任を得たと伝えられる。

1862年、久光は藩主でも官位を持つ者でもない身で、約1000人の兵を率いて京に上った。亡き兄の遺志を継ぎ、朝廷の権威を背景に幕府の政治を改めさせるのが目的だった。ところが京には、薩摩の兵の上洛を倒幕の挙兵と受け取った過激な志士たちが集まっていた。薩摩藩士の有馬新七らも、伏見の寺田屋に集まって関白や京都所司代を襲う計画を立てた。4月23日、久光は同じ薩摩藩士の剣の使い手を説得役として送り込み、従わなければ斬れと命じた。説得は決裂し、斬り合いになった。有馬らのうち6人がその場で死に、重傷の2人も後に切腹させられた(寺田屋事件)。藩士が藩士を斬ったこの事件で、久光は朝廷から過激派を抑える力のある人物として信頼を得た。
この上京に強く反対したのが、流罪から戻されたばかりの西郷隆盛だった。西郷は久光に面と向かって、斉彬公と違ってあなたには天下を動かす力も人脈も無い、という趣旨のことを言い、久光を「地ゴロ(田舎者)」と評したと伝わる。さらに待機の命令に背いて動いたため、久光の怒りを買い、徳之島、続いて沖永良部島へ流された。
久光はそのまま勅使大原重徳を護衛して江戸に下り、幕府に一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に就けさせた(文久の改革)。その帰り道、1862年8月21日、横浜近くの生麦村で、行列の前を馬で横切った英国人の一行に供の藩士が斬りつけ、商人リチャードソンが死んだ(生麦事件)。英国は賠償と犯人の処罰を求め、薩摩は応じなかった。翌1863年7月、英国艦隊が鹿児島湾に来航し、薩英戦争が起きた。城下の一部が焼かれたが、薩摩の砲台も英艦隊に打撃を与え、旗艦の艦長が戦死した。戦いの後、薩摩は英国の実力を知って攘夷の不可能を悟り、かえって英国に接近した。1865年には藩士を英国に留学させている。

1863年、久光は会津藩と組んで長州勢力を京から追い出す政変に関わり、翌年初め、朝廷の参預として慶喜、春嶽らとともに国政を議する席に加わった。このとき従四位下左近衛権少将に任じられている。しかし横浜の開港をめぐって慶喜と激しく対立し、酒の席で慶喜が久光らを罵ったこともあって、参預会議は数か月で崩れた。1867年の四侯会議でも慶喜に押し切られ、これが薩摩が幕府との協調を捨て、武力による倒幕へ傾く一つのきっかけになった。久光は武力討幕には慎重だったとされるが、最終的には藩兵の上京を認めた。その後の薩長同盟から王政復古に至る動きは、西郷、大久保、家老の小松帯刀らが主導した。
明治の新政府は、久光の望んだものではなかった。1871年、廃藩置県で藩が廃されると、久光は激怒し、鹿児島の邸で一晩中花火を打ち上げさせて憤りを紛らわせた、と伝えられる。1873年に東京へ出て、翌年には左大臣に任じられたが、洋服や太陽暦の採用など新政府の改革を批判し、古い制度に戻すよう求める建白を出し続け、1875年に職を辞して鹿児島に帰った。自らは生涯、髷を切らず、刀を手放さなかった。かつての家臣西郷とは最後まで打ち解けることがなかった。1877年の西南戦争では、久光はどちらにも加わらなかった。

晩年は歴史書の編纂などに力を注ぎ、1884年に公爵を授けられた。1887年12月6日、鹿児島で死去し、国葬で送られた。藩の兵を率いて中央政治に乗り込み、維新への扉を開いた薩摩の最高権力者が、その維新の結果に最後まで背を向け続けたことになる。