阿部正弘
概要
25歳で老中首座になり、ペリーが来ると諸大名と庶民にまで意見を求めた。前例のない開国の決め方。人材を登用し、講武所と長崎海軍伝習所を作り、和親条約を結んで、39歳で死んだ。幕府が動けた最後の人。
所属
日本関わったできごと(1)
黒船来航1853年7月8日(嘉永6年6月3日) · 老中首座本文
1819年、江戸にあった備後福山藩の屋敷で、藩主阿部正精の五男として生まれた。福山藩は10万石の譜代大名で、阿部家は代々幕府の老中を出してきた家柄である。兄が病弱で早くに隠居したため、1836年、数え18歳で家督を継ぎ、福山藩主となった。
出世は驚くほど速かった。寺社奉行として、大奥の女中と僧侶が絡む不祥事を穏便に裁いて将軍徳川家慶の信頼を得、1843年、数え25歳で老中に抜擢された。2年後、天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚すると、27歳で老中の筆頭、首座となった。異例の若さだった。強引な改革で反発を買った水野とは対照的に、彼は人の話をよく聞き、角を立てずにまとめる人だった。何を考えているのかつかみどころがない、という意味で、「瓢箪鯰」とあだ名されたとも伝えられる。
老中首座となった彼の前には、海の外からの圧力が待っていた。隣の清はアヘン戦争でイギリスに敗れていた。1844年にはオランダ国王が開国を勧める親書を送り、1846年にはアメリカの東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来て通商を求めた。幕府はいずれも断ったが、阿部は、いずれ大きな波が来ることを予感していた。海防の強化を諸藩に命じ、オランダからの情報にも目を配った。
1853年6月、ペリーの率いる4隻の艦隊が浦賀に現れた(黒船来航)。黒い船体から煙を吐く蒸気船を含む艦隊は、大統領の国書を受け取らなければ江戸湾に進んで直接届けると迫った(マシュー・ペリー)。阿部は戦いを避けることを選び、久里浜で国書を受け取らせた。返事は1年後とした。ペリーが去ってまもなく、病床にあった将軍家慶が死んだ。

ここで阿部は、前例のないことをした。アメリカの国書を翻訳して諸大名に示し、どう対応すべきか意見を求めたのである。対象は大名にとどまらず、幕臣、学者、さらには町人にまで広げられた。寄せられた意見書は700通を超えたという。開国はやむをえないとする意見、一時的に通商を許して力を蓄えよという意見、断固として打ち払えという意見。吉原の遊郭の主人までが意見書を出したことが伝わっている。
これは幕府の弱さの表れだった。それまで幕府は、外交を含む国の大事を、老中たちだけで決めてきた。広く意見を求めたことで、大名や朝廷が政治に口を出す道が開かれ、のちの幕府の権威の崩壊につながったと見る歴史家は多い。だが同時に、国の進路を一部の者だけで決めず、国中の知恵を集めようとした最初の試みでもあった。阿部はまた、強硬な攘夷論を唱える水戸藩の前藩主徳川斉昭を海防の参与として幕政に迎え入れた。反対派の筆頭を内に取り込むことで、国論の分裂を防ごうとしたのである。
1854年1月、ペリーは予告より早く、7隻の艦隊で再びやって来た。3月、日米和親条約が結ばれた(日米和親条約)。下田と箱館の2港を開き、アメリカ船に燃料や水、食料を与え、漂流民を保護する。通商は認めなかった。続いてイギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結んだ。200年あまり続いた、限られた国としか交わらない体制は、ここで終わった。
阿部が最も力を入れたのは、人材の登用だった。身分や家柄にとらわれず、才能のある者を引き上げた。無名の小普請組の御家人だった勝海舟は、海防の意見書が目に留まって登用された。伊豆韮山の代官江川英龍には江戸湾の品川に砲台、つまり台場を築かせた。長崎の砲術家で、罪を得て幽閉されていた高島秋帆を赦して呼び戻した。土佐の漁師の子で、アメリカに10年暮らして帰国したジョン万次郎を幕臣に取り立てた。外交の場では、川路聖謨、岩瀬忠震、永井尚志ら、有能な若い官僚たちが働いた。彼らはのちの幕末の外交と改革を担っていく。
人を育てる仕組みも作った。1855年、長崎に海軍伝習所を開き、オランダの教官を招いて、幕臣や諸藩の若者に航海術と造船、砲術を学ばせた。勝海舟もここで学んだ。江戸には武術と洋式の砲術を教える講武所を、洋書を翻訳し研究する蕃書調所を設けた。蕃書調所は、のちに東京大学の源流の一つとなる。自分の藩の福山でも、藩校誠之館を開き、身分に関わりなく学問を奨励した。
だが、国の内では対立が深まっていた。開国に反対する斉昭ら攘夷派と、開国を進めようとする譜代大名たち。さらに、病弱な将軍家定の跡継ぎをめぐって、一橋家の慶喜を推す一派と、紀州藩の慶福を推す一派の争いも始まっていた。1855年、阿部は老中首座の座を、開国派の堀田正睦に譲った。自らは老中にとどまり、対立する両派の間で調整を続けた。
1857年6月、老中在職のまま、江戸で死んだ。数え39歳だった。過労がたたったともいわれ、死因については諸説ある。
彼の死の翌年、紀州派の井伊直弼が大老となった(井伊直弼)。井伊は勅許を待たずにアメリカと修好通商条約を結び、反対する者を厳しく処罰した(安政の大獄)。阿部が生きていれば、と惜しむ声は当時からあった。対立する者たちをつなぎ止めていた人がいなくなり、幕府は分裂への道を進んでいった。彼が抜擢した人々は、その後の激動の中で、幕府の側からも新しい時代の側からも、日本の近代化を支えていくことになる。