薩長同盟

概要
禁門の変で敵同士だった薩摩と長州が、坂本龍馬の仲介で手を結んだ。討幕の軸ができる。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(3)
坂本龍馬1836年–1867年12月10日(慶応3年11月15日) · 仲介西郷隆盛1828年–1877年 · 薩摩側木戸孝允1833年–1877年 · 長州側本文
2年前、薩摩と長州は京の御所で撃ち合った相手同士である。1863年8月、薩摩は会津と組んで宮中の政変を起こし、長州の勢力を京から追い出した(八月十八日の政変)。翌1864年、勢力を取り戻そうと兵を率いて上京した長州は、御所の門で会津・薩摩の兵と戦って敗れた(禁門の変)。長州は朝敵とされ、幕府は征討の軍を起こす。長州の藩士たちは、下駄の裏に「薩賊会奸」と書いて踏みつけて歩いたと伝えられるほど、薩摩を憎んでいた。
その後、両藩はそれぞれに変わった。長州は、四国艦隊下関砲撃事件で欧米の軍事力を思い知り、攘夷を捨てた。第一次長州征討では幕府に恭順したが、1864年の暮れ、高杉晋作が奇兵隊などを率いて挙兵し、藩の実権を握る。藩は表向き恭順を装いながら、幕府と戦う準備を進めた。
薩摩も薩英戦争を経て、攘夷が無理なことを知り、イギリスに近づいていた。第一次長州征討で幕府軍の参謀を務めた西郷隆盛は、長州を徹底的に潰すことはせず、寛大な条件でまとめている。幕府がこのまま力を取り戻せば、次は薩摩が狙われると西郷は考えはじめていた。

1865年、幕府が再び長州を攻めるための勅許を朝廷から得ようとしたとき、薩摩の大久保利通は、道理に外れた勅命は勅命ではない、という趣旨を西郷宛ての手紙に書いている。天皇の命令であっても従わない、と言い切ったに等しい。薩摩は、幕府の言いなりにはならないという立場を、このときすでに固めつつあった。
両藩の間を取り持ったのは、どちらの藩にも属さない脱藩浪士だった。土佐を出た坂本龍馬と中岡慎太郎である。1865年閏5月、二人は下関で西郷と長州の桂小五郎(後の木戸孝允)を会わせようとしたが、西郷は直前に予定を変えて京へ向かい、約束をすっぽかした。桂は激怒した。

そこで龍馬は、まず実利で両藩を結びつけた。長州は幕府の圧力で外国から武器を買えなかった。龍馬が長崎で率いていた亀山社中が仲立ちとなり、薩摩の名義でイギリス商人グラバーから小銃を買い入れて長州に回した。ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺といわれる。長州からは、伊藤博文や井上馨が長崎に出向いて交渉に当たった。代わりに長州は、兵糧の米を薩摩に回すことになった。
慶応2年1月、桂は京に入り、薩摩の家老小松帯刀の屋敷で西郷らと会った。屋敷は近衛家の別邸を借りたもので、「御花畑」と呼ばれていた。小松は西郷・大久保の上に立つ家老として藩の方針をまとめる立場にあり、この同盟でも表に出ない要の役を果たしたとされる。だが10日たっても本題に入らなかった。宴は開かれても、同盟の話は出ない。どちらも「こちらから頼む」形にしたくなかったからだとされる。朝敵の身である長州から頼めば、助けを乞う形になる。桂は話がまとまらないまま帰ろうとしていた。

そこへ龍馬が着いた。龍馬は桂から事情を聞くと、西郷のもとへ行って、薩摩の側から切り出すよう迫ったと伝わる。1月21日(22日とする説もある)、両藩は六か条の約束を交わした。幕府と長州の戦いになれば、薩摩は2千の兵を京と大坂に送って幕府に圧力をかける。長州が勝っても負けても、薩摩は長州の朝敵の汚名をすすぐよう朝廷に働きかける。一橋・会津・桑名が邪魔をするなら、決戦も辞さない。おおよそそういう中身だった。
この約束は、公式の文書ではない。桂が帰国の途中で内容を書き留め、龍馬に送って確かめてもらった私的な覚書である。龍馬はその裏に朱で、書かれた内容に間違いは無いと書き添えて返した。この裏書きのある書状が、いまも宮内庁に伝わっている。

会談の直後の1月23日の夜、龍馬は伏見の船宿寺田屋で伏見奉行所の役人に襲われた。入浴中だったお龍が異変に気づいて知らせ、龍馬は手に深い傷を負いながら、ピストルで応戦して逃れた。龍馬はその傷を癒すため、お龍と薩摩の霧島へ旅をしている。日本で最初の新婚旅行とよく言われる。
約束が試されたのは半年後だった。1866年6月、幕府は再び長州を攻めた(第二次長州征討)。薩摩は出兵を拒み、長州は四方の国境で幕府軍を退けた。

薩長同盟が、最初から幕府を倒すための軍事同盟だったのかについては、議論がある。六か条の中身は、長州の名誉回復に薩摩が協力するという点に重心があり、討幕という言葉は出てこない。それでも、昨日の敵が手を結んだことで、幕府に対抗できる二つの大藩の軸ができたことは確かである。この軸が、翌年の大政奉還と王政復古、そして明治の新政府へとつながっていく。