カンビュセス2世
概要
キュロスの長子。エジプトを取り、ヌビアとシワの遠征に失敗した。ヘロドトスは聖牛を刺し、妹を妻にして殺し、狂ったと書く。帰る途中、弟の名を騙る男が王を名乗り、自分の剣で腿を傷つけて死んだ。ダレイオスがそれを継いだ。
所属
アケメネス朝ペルシア関わったできごと(1)
カンビュセスのエジプト征服BC525年 · 王本文
古代ペルシア語ではカンブジヤ。アケメネス朝を開いたキュロス2世の長子で、母はカッサンダネとされる。生年は分からない。紀元前539年に父が新バビロニアを倒すと(キュロスのバビロン征服)、翌年の新年祭では、バビロンの年代記にカンビュセスが父の代理として儀式に臨んだ記録が残る。早くから後継ぎとして扱われていた。

紀元前530年、キュロスが東方の遊牧民マッサゲタイとの戦いで死に、カンビュセスが王位を継いだ。父が残した帝国は、イランからアナトリア、メソポタミア、地中海の東岸まで広がっていたが、西の大国エジプトがまだ残っていた。彼は数年をかけてフェニキアの船とキプロスの艦隊を手に入れ、アラビアの遊牧民と結んで砂漠を越える水の手配をした。
紀元前525年、ナイル・デルタの入口ペルシオンで、即位したばかりのプサメティコス3世の軍を破り、メンフィスを落とした(カンビュセスのエジプト征服)。プサメティコス1世のエジプト再統一から続いたサイス朝はここで終わる。カンビュセスはさらに西のカルタゴを攻めようとしたが、フェニキア人の水夫が、自分たちの植民市は攻められないと拒んだ。南のクシュ(ヌビア)への遠征は食糧が尽きて失敗し、西のシワ・オアシスのアモン神殿に送った5万の兵は、砂嵐に呑まれて消えたとヘロドトスは伝える。
カンビュセスの名を悪くしたのは、ヘロドトスの『歴史』(ヘロドトス『歴史』)である。ヘロドトスによれば、遠征の失敗に苛立った王は、エジプト人が神と崇める聖牛アピスの腿を短剣で刺し、祭司を鞭打たせた。弟スメルディスを夢のお告げを恐れて腹心のプレクサスペスに殺させ、妻にしていた実の妹を蹴って死なせた。酒を咎めたプレクサスペスに、自分が正気だと示すため、その息子の心臓を矢で射抜いてみせた。先王アマシスのミイラを掘り出して鞭打ち、焼かせた。ヘロドトスは、王は生まれつき「神聖病」(てんかんと考えられる)を患っていて、そのうえ正気を失ったのだと書く。

しかしエジプトに残る史料は違う姿を描く。サイスの神官ウジャホルレスネトの像の銘文には、カンビュセスがファラオとしての名を名乗り、ネイト女神の神殿に居座った外国兵を追い出させ、祭儀を元どおりにしたことが刻まれている。メンフィスの聖牛の墓所からは、カンビュセスの治世6年に死んだアピスの石棺が見つかっていて、王が葬儀を整えたと記されている。少なくともこの聖牛を王が殺したとは考えにくい。ヘロドトスの話の多くは、ペルシアに不満を持つエジプトの神官から聞いたものだったとみられている。
紀元前522年3月、王が遠征から帰る途中、本国で一人の男が「キュロスの子バルディヤ(スメルディス)」を名乗って王位に就いた。ヘロドトスによれば、カンビュセスはシリアで知らせを受け、急いで馬に飛び乗ったとき、剣の鞘の先が外れ、刃が腿に刺さった。かつてアピスを刺したのと同じ場所だった。傷は腐り、20日ほどで死んだ。死ぬ前に、自分が弟を殺したこと、王を名乗る男は偽物であることを重臣に打ち明けたという。

7か月後、ダレイオス1世がこの男を殺して王位に就いた。ダレイオスがベヒストゥンの岩壁に刻ませた碑文には、カンビュセスは弟バルディヤをひそかに殺していた、民はそれを知らなかった、カンビュセスがエジプトにいる間にガウマタという祭司がバルディヤを名乗った、とある。カンビュセスについては「自分の死によって死んだ」とだけ記す。事故か病か、あるいは自害を言うのか、この言い回しの意味はいまも議論が続いている。
ベヒストゥンの話は、王位を奪ったダレイオスが自分の正しさを説くために書かせたものである。王を名乗った男は本物のバルディヤで、ダレイオスこそ簒奪者だったと疑う研究者もいる。狂った王カンビュセスの像は、征服されたエジプトの神官と、後を継いだダレイオスと、それを聞き書きしたギリシア人の三者によって作られたとも言える。砂に消えた5万の兵は、その後もたびたび探され、2009年にはイタリアの探検家が遺物を見つけたと発表したが、確かめられていない。