シケリア遠征

概要
アルキビアデスが煽り、ニキアスが反対して、ニキアスが指揮させられた。134隻。出航の前夜にヘルメス像が壊され、アルキビアデスは召還されてスパルタへ逃げた。2年、シラクサを囲んで、港に閉じ込められ、陸で逃げて、4万の軍が崩れ、7000人余りの捕虜が石切り場に入れられた。アテナイはここから負けた。
場所
37.08°N 15.29°E · イタリア・シチリア州
関わった人(2)
アルキビアデスBC450年–BC404年 · 煽って逃げたニキアスBC470年頃–BC413年 · 指揮して死んだ本文
紀元前431年に始まったアテナイとスパルタの戦争(ペロポネソス戦争)は、10年たっても決着がつかなかった。アテナイは疫病で指導者ペリクレスを失い(アテナイの疫病)、スパルタも打撃を受けていた。紀元前421年、アテナイの将軍ニキアスの主導で講和が結ばれた。ニキアスの和約と呼ばれる。だが和約は形ばかりで、両陣営は小競り合いを続けた。アテナイはデロス同盟の結成の盟主として海の帝国を築いており、その民会には、さらに勢力を広げたいという空気が満ちていた。
紀元前416年、シケリア(シチリア島)の西部の町エゲスタから使者が来た。隣の町セリヌスと争っていて、セリヌスにはシケリア最大の都市シラクサが味方している。助けてほしい、戦費は自分たちが出す、という申し出だった。アテナイが調べに使者を送ると、エゲスタの人々は神殿の宝物を見せ、さらに町の家々に招いて宴を開き、金や銀の杯を並べた。じつはその杯は、近隣の町から借り集めて家から家へ回したもので、使者たちは同じ杯を何度も見せられていたことに気づかなかった。

紀元前415年の春、アテナイの民会はシケリアへ60隻の船を送ることを決め、将軍にニキアス、アルキビアデス、ラマコスの3人を選んだ。年長で慎重なニキアスは、スパルタとの戦いが終わってもいないのに、遠い大きな島に手を出すのは危ういと反対した。若く野心に満ちたアルキビアデスは、シケリアを取れば、その先にイタリアもカルタゴも見えてくると説いた。数日後の民会で、ニキアスは計画を取りやめさせようとして、成功させるにはずっと大きな軍が要ると述べ、その規模を並べ立てた。民会は怖じ気づくどころか、それならそれだけ出そうと決めてしまった。
出航を前にしたある夜、アテナイの町じゅうに立っていたヘルメス神の石柱像が、いっせいに顔を打ち壊されているのが見つかった。航海の守り神を汚す不吉な事件だった。調べが進むうちに、アルキビアデスが仲間と酒宴でエレウシスの秘儀をまねて冒涜したという告発が出てきた。アルキビアデスは出航前に裁判を受けて身の潔白を明らかにしたいと求めたが、政敵たちは、兵の人気が高い彼を今裁くのは不利と見て、裁判を先送りにした。

夏、艦隊はペイライエウスの港を出た。三段櫂船134隻、重装歩兵5100人に、弓兵や投石兵が加わった。漕ぎ手を合わせれば2万人を大きく超える大軍だった。トゥキュディデスは、町の人々がこぞって港へ下りて見送り、ひとつの都市が送り出した艦隊として、それまでで最も費用をかけた壮麗なものだったと書いている。
シケリアに着くと、期待は次々に外れた。南イタリアの町々は艦隊を迎え入れず、エゲスタには約束した金が無いことも分かった。そこへ本国から公用の船が来て、アルキビアデスに裁判のため帰国するよう命じた。アルキビアデスは途中の南イタリアの町で姿をくらまし、敵のスパルタへ逃げた。アテナイは彼に死刑を宣告した。スパルタでアルキビアデスは、シラクサへ指揮官を送ること、そしてアテナイの近くのデケレイアに砦を築いて占領し続けることを勧めた。

指揮はニキアスとラマコスに残された。紀元前414年、アテナイ軍はシラクサを包囲し、町の背後のエピポライの高台に壁を築いて、陸から町を囲い込もうとした。シラクサは逆向きに壁を延ばして対抗し、その戦いのなかでラマコスが戦死した。それでも、包囲の壁はあと少しで完成するところまで進み、シラクサでは降伏を話し合う声も出はじめた。そこへスパルタの将軍ギュリッポスが、コリントスの船の助けを借りてわずかな兵とともに到着した。ギュリッポスはシラクサの人々を励まし、アテナイの壁を横切る壁を築いて、包囲を断ち切った。
冬、ニキアスは本国に手紙を書いた。軍は疲れ、船は傷み、自分は腎臓の病で指揮もままならない。撤退させるか、最初と同じ規模の援軍を送るか、どちらかに決めてほしい。民会は撤退を選ばなかった。紀元前413年の春、デモステネスの率いる73隻の援軍が着いた。デモステネスはすぐにエピポライへの夜襲をかけたが、暗闇のなかで味方どうしが混乱し、大敗した。

デモステネスは撤退を主張し、ニキアスもついに同意した。ところが出発の夜、月食が起きた。紀元前413年8月27日のことである。信心深いニキアスは、占い師の言葉に従って27日間待つことにした。そのあいだにシラクサ側は港の出口を船で封鎖した。追いつめられたアテナイ艦隊は、町の大港で封鎖を破ろうとして海戦を挑み、敗れた。残った船で再び挑む気力も兵士たちには無く、陸から逃げるしかなくなった。
およそ4万人が、負傷者を見捨てて陸路で南へ向かった。食糧も水も乏しく、騎兵と投げ槍に追われながらの行軍だった。後ろを進んだデモステネスの部隊が先に囲まれて降伏し、ニキアスの部隊はアシナロス川にたどり着いた。渇ききった兵士たちは隊列を崩して川へなだれ込み、水を奪い合ったところを、岸から矢と槍を浴びせられた。川は血に濁り、それでも兵士たちは水を飲もうとしたとトゥキュディデスは書く。ニキアスは降伏した。

ニキアスとデモステネスは、ギュリッポスの反対を押し切って処刑された。7000人を超える捕虜は、シラクサの石切り場に押し込められた。屋根の無い穴の底で、昼は日に焼かれ、夜は冷え、一日に水を小さな椀に1杯と穀物を2杯しか与えられなかった。死体は積み重なったまま放置された。70日ほどのち、アテナイ人とシケリアやイタリアのギリシア人を除く者は奴隷として売られた。プルタルコスによれば、悲劇詩人エウリピデスの詩を暗唱して聞かせた捕虜のなかには、それを喜んだシラクサの人々に解放され、帰国してエウリピデスに礼を言いに行った者もいたという。
トゥキュディデスはこの遠征を、この戦争のなかで最大の出来事であり、勝った者には最も輝かしく、負けた者には最も悲惨なものだったと書いた。軍も艦隊もすべて失われ、多くの者のうち、故郷へ帰れたのはわずかだったという。アテナイは200隻前後の船と数万の兵を失った。スパルタはこの年の春、アルキビアデスの勧めどおりデケレイアに砦を築いていた。アテナイの田園は一年中敵に押さえられ、銀山などから2万人を超える奴隷が逃げ出した。それでもアテナイは驚くべき粘りで艦隊を作り直し、さらに9年戦い続けた。だが紀元前405年のアイゴスポタモイの海戦で最後の艦隊を失い、翌年降伏した。シラクサのラトミアと呼ばれる石切り場の跡は、いまは緑の多い庭園になっている。