ペリアンドロス
概要
コリントスの僭主。ディオルコス(船の陸送路)を敷き、コルキュラとポテイダイアに植民し、アリオンを招いた。妻メリッサを殺し、その息子を憎み、コルキュラの少年300人を去勢のためリュディアへ送った。七賢人の一人でもある。「練習がすべて」。
所属
ギリシア諸ポリス関わったできごと(1)
ペリアンドロスのコリントスBC627年 · 僭主本文
ペリアンドロスは、紀元前7世紀の末から6世紀の初めにかけて、ギリシアの商業都市コリントスを40年ほど治めた僭主である(ペリアンドロスのコリントス)。父キュプセロスは、コリントスを支配していた貴族の一族バッキアダイを追い出して、自ら権力を握った人だった。ペリアンドロスはその地位を継いだ。

コリントスは、ギリシア本土とペロポネソス半島をつなぐ地峡にあり、東西の二つの海に港を持っていた。ペリアンドロスのもとで、町は繁栄の絶頂を迎えた。地峡には、船を陸に引き上げて反対側の海まで運ぶための石の道「ディオルコス」が敷かれた。これを作ったのは彼だとされるが、確かではない。北西のアンブラキアやアポロニア、北のカルキディケのポテイダイアなど、各地に植民市が築かれ、コリントスの陶器は地中海の各地に運ばれた。
ペリアンドロスは、詩人や芸術家を宮廷に招いた。竪琴の名手アリオンは、イタリアからの帰りの船で船乗りたちに財産を狙われ、海に飛び込んだが、イルカの背に乗って助かり、コリントスに戻ったという。ヘロドトスはこの話を記し(ヘロドトス『歴史』)、イルカに乗った人の小さな青銅像が、ペロポネソス半島の南端の岬の神殿にあると書いている。

だが、ヘロドトスが描くペリアンドロスは、残酷な僭主である。はじめ彼は父より穏やかだったが、小アジアのミレトスの僭主トラシュブロスのもとに使者を送り、国を治める最善の方法を尋ねてから変わった。トラシュブロスは何も言わず、使者を連れて麦畑を歩き、ほかより高く伸びた穂を折り取っては捨てた。使者が戻ってその様子を伝えると、ペリアンドロスは、町の有力者を除けという意味だと悟り、市民を次々に殺し、追放した。この話は、のちに僭主の政治のたとえとして繰り返し引かれた。
家族をめぐる話はさらに暗い。妻メリッサは、近くのエピダウロスの僭主の娘だった。ペリアンドロスは彼女を殺した。のちの伝えでは、側室たちの中傷を信じ、身ごもっていた妻を蹴り殺したとされ、後悔した彼は側室たちを焼き殺したという。ヘロドトスによれば、ペリアンドロスは、死者の霊に問う神託所に使者を送り、友人から預かった財宝のありかをメリッサの霊に尋ねさせた。霊は、着物を一緒に焼いてもらえなかったので裸で寒い、と答えた。ペリアンドロスはコリントスの女たちを祭りの装いでヘラの神殿に集め、その着物を脱がせて穴の中で焼き、メリッサに祈った。すると霊は財宝のありかを告げた、という。

メリッサが産んだ二人の息子のうち、弟のリュコフロンは、母方の祖父から母を殺したのは父だと聞かされ、父と口をきかなくなった。ペリアンドロスは彼を家から追い出し、泊めた者を罰すると布告した。飢えて柱廊にうずくまる息子に、父は意地を張るのをやめて戻れと言ったが、息子は答えなかった。息子は、コリントスの植民市のコルキュラ島へ送られた。年老いたペリアンドロスが、自分はコルキュラへ移るから、戻ってコリントスを治めよと持ちかけると、それを知ったコルキュラの人々は、僭主が来るのを嫌ってリュコフロンを殺した。怒ったペリアンドロスは、コルキュラの名家の少年300人を捕らえ、去勢させるためにリュディアの王のもとへ送った。だが途中で船が寄ったサモス島の人々が少年たちを神殿にかくまい、胡麻と蜂蜜の菓子を与えて生き延びさせ、故郷へ帰したという。コリントスとコルキュラの反目は長く続き、紀元前5世紀にはペロポネソス戦争のきっかけの一つになった。
それでも、古代のギリシア人は、ペリアンドロスを七賢人の一人に数えることがあった。七賢人の顔ぶれは伝える人によって違い、タレスやソロンは常に入るが、プラトンは、僭主を賢人に数えることを嫌ったのか、ペリアンドロスの代わりに無名の農夫ミュソンを挙げている。後世の伝記作家ディオゲネス・ラエルティオスは、練習がすべてである、怒っているときに何も言うな、といった言葉を彼のものとして伝えている。
ディオゲネスは、彼の最期についての奇妙な話も伝える。ペリアンドロスは、自分の墓の場所を誰にも知られたくなかった。そこで二人の若者に、夜、ある道で出会った男を殺して埋めよと命じ、その二人を殺させるために四人を送り、四人を殺させるために、さらに大勢を送った。そして、自ら最初の男として、その道を歩いていったという。彼の死後、甥が後を継いだが、数年で倒され、コリントスの僭主政は終わった。