できごと

クノッソスの宮殿

Knossos
紀元前19世紀
年に諸説あり重要度 3
古シベリアの狩猟採集民バントゥー系の人びとサハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民Austroasian rice culturesアンドロノヴォ文化セム系の人びとCatacomb cultureインダス文明ビーカー文化ウルアナトリアの諸部族エジプトオクサス文明(バクトリア・マルギアナ)エラムヒッタイト都市国家群シンタシュタ文化NamazgaCanaanフルリの諸王国Kerma紀元前19世紀クノッソス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている紀元前19世紀の版図を描いています(22勢力)。

概要

城壁を持たない宮殿。海が壁だったと考えられている。文字(線文字A)はいまも読めない。

場所

クノッソス
35.30°N 25.16°E · ギリシア・クレタ島

本文

クレタ島はエーゲ海の南の端に横たわる細長い島で、エジプト、レヴァント、ギリシア本土、小アジアのどこからも船で数日の距離にある。紀元前3千年紀からこの島では青銅器の文化が育ち、紀元前19世紀ごろ、島の中ほどの北岸近くにあるクノッソスをはじめ、ファイストス、マリアなど何か所かで、大きな宮殿が建ち始めた。これらの宮殿を中心とする文化は、のちにギリシア神話の王ミノスの名を取って「ミノア文明」と呼ばれる。

クノッソスの宮殿は、長方形の大きな中庭を囲んで、何百もの部屋が何層にも重なる複合建築だった。広さは2万平方メートルほどとされる。階段、廊下、光を取り入れる吹き抜け、雨水を流す土管の下水が張りめぐらされ、倉庫には油や穀物、葡萄酒を入れた人の背丈ほどの壺が何列も並んでいた。宮殿は祭祀の場であり、王や神官の住まいであり、島の産物を集めて配り直す拠点でもあったと考えられている。

クノッソス宮殿の平面図
クノッソス宮殿の平面図Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Jolle~commonswiki assumed (based on copyright claims). · Public domain

目を引くのは、城壁が見当たらないことだ。同じころのメソポタミアやアナトリアの都市は、まず厚い壁で身を囲んだ。クノッソスは、町を囲む大がかりな城壁を持っていない。島を囲む海と、それを行き来する船が守りだったのだろうと考えられてきた。後のギリシアの歴史家トゥキュディデスも、ミノスが最初に海軍を持って海を治めた、と伝えている。ただ、これを「争いの無い平和な社会」とまで言えるかは別で、島の各地では見張りの施設や武器も見つかっており、議論がある。

入り組んだ間取りは、ミノタウロスの迷宮の伝説を思わせる。アテナイから送られた若者を食べる牛頭の怪物が、ミノス王の造らせた迷宮に住んでいたという話である。宮殿の壁や柱に両刃の斧の印が多く刻まれていること、その斧を指す言葉が「ラビュリントス(迷宮)」の語源ではないかとする説もあるが、確かではない。

雄牛と二人の女性が描かれたフレスコ画
雄牛と二人の女性が描かれたフレスコ画Wikimedia Commons unknown ancient artist · Public domain

壁画も独特である。戦いや王の武勲を誇る場面が乏しい。描かれるのは、海を泳ぐイルカや魚、咲き乱れる百合、行列を作る人々、そして突進してくる牛の角をつかんで背中を跳び越える若者たちだ。女性が大きく、華やかな衣装で描かれる場面も多く、女性の地位が高かったとする見方があるが、確かめる手立ては乏しい。ただし、いま見られる壁画の多くは、わずかな破片から大幅に描き足して復元したものである。

宮殿は紀元前1700年ごろに地震とみられる災害で壊れたが、すぐに前より大きく建て直された。その後の紀元前17世紀から16世紀ごろ、北に100キロあまり離れたテラ島(いまのサントリーニ島)で巨大な噴火が起き(テラ島の噴火)、クレタの北岸にも火山灰や津波が及んだと考えられている。これがミノア文明の衰えの始まりだとする説は根強い。ただ、噴火の年代は放射性炭素では紀元前1600年ごろ、土器の様式からはもっと後と出て、数十年から百年ほど食い違っており、宮殿が最終的に焼け落ちるまでには、さらに時間がある。

クノッソスの銀ドラクマ貨、迷宮文様
クノッソスの銀ドラクマ貨、迷宮文様Wikimedia Commons Cnossos (Crète ; atelier monétaire). Atelier monétaire · Public domain

紀元前1450年ごろ、クレタの宮殿の多くが焼けて捨てられた。クノッソスだけは使われ続けたが、そこで使われる文字が変わる。それまでの線文字Aに代わって、線文字Bの粘土板が現れるのである。1952年に線文字Bが解読されると、それはギリシア語の古い形だと分かった(線文字Bの解読)。ギリシア本土のミケーネの人々が、クレタを支配するようになったと考えられている。

宮殿を掘り出したのは、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズで、1900年から発掘を始めた。エヴァンズは柱や壁をコンクリートで建て直し、赤く塗った柱も再現したため、訪れる人は往時の姿を想像しやすくなったが、どこまでが元の姿なのか分からなくなったという批判も受けている。

クノッソス宮殿の北入口
クノッソス宮殿の北入口Wikimedia Commons Frederic Boissonnas · Public domain

線文字Aは、いまも読めていない。線文字Bと形の似た記号が多いので、音の見当はある程度つく。しかし、書かれている言葉がどの言語の仲間なのか分からず、粘土板の数も少ないため、意味が取れないのである。ミノアの人々が自分たちを何と呼んでいたのかも、分かっていない。

出典(1)

ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第I部 ユーラシア大文明の誕生とその発展(BC500年まで)

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