第一次メッセニア戦争

概要
スパルタが西隣のメッセニアを20年かけて征服し、住民をヘイロタイ(隷属農民)にした。以後スパルタ市民は、その反乱を抑えるために軍事に専念する。
場所
37.08°N 22.43°E · ギリシア・ラコニア
本文
スパルタの西、タユゲトス山脈を越えた向こうにメッセニアがある。パミソス川が流れる肥えた平野で、スパルタのあるラコニアの谷よりも広く、豊かだった。紀元前8世紀の後半、スパルタはこの土地を奪いにかかる。
戦いの経過は、ほとんどが後世の記録でしか分からない。いちばん詳しいのは、800年以上あとの2世紀に旅行記を書いたパウサニアスで、そこには英雄の名や劇的な場面が並ぶ。メッセニア人がイトメ山の砦に立てこもり、王アリストデモスが神託に従って自分の娘を生贄に捧げた、という話もその一つだが、これは伝承として読むしかない。
同じ時代に近い証言もある。紀元前7世紀のスパルタの詩人テュルタイオスが、祖父の世代の戦いとしてこれを歌っている。王テオポンポスのもとで、槍を持つ父祖たちが19年にわたって戦い、20年目に敵はイトメの山を捨てて逃げた、という。戦争がおよそ20年続いたという数字は、ここから来ている。年代は紀元前8世紀の後半、おおよそ紀元前740年前後から720年前後とされるが、正確な年は分からない。
勝ったスパルタは、住民を殺しも売りもしなかった。土地に縛りつけ、その土地を耕させた。こうした人々をヘイロタイ(隷属農民)と呼ぶ。テュルタイオスは、彼らが重荷を負うろばのように、収穫の半分を主人のもとへ運んだと歌う。ヘイロタイは個々の市民の私有物ではなく、国家に属するものとされ、主人が勝手に売ったり解放したりすることはできなかった。

この仕組みで、スパルタ市民は自分で耕さなくても食べていけるようになった。だが、その代わりに背負ったものがある。ヘイロタイの数は市民よりはるかに多かった。ヘロドトスは、紀元前479年のプラタイアの戦いで、スパルタ市民一人ひとりにヘイロタイ七人が従ったと書いている。土地を奪われた人々は、自分たちがかつて自由なメッセニア人だったことを忘れなかった。反乱が起これば、少数の市民はひとたまりもない。
じっさい紀元前7世紀には、メッセニア人が立ち上がり、第二次メッセニア戦争になった。テュルタイオスの詩は、この苦しい戦いのさなかに市民を奮い立たせるために作られたものと考えられている。スパルタはこれも鎮めたが、恐れは残った。
スパルタの独特な生き方は、この恐れの上に組み立てられた。男の子は7歳で家を出て集団で育てられ、空腹と寒さに耐える訓練を受けた。成人しても30歳までは兵舎で暮らし、その後も仲間との共同食事に加わり続けた。市民は農業も商業も禁じられ、一生を戦いの備えに捧げた。こうした制度はのちに伝説の立法者の名を冠して語られる(リュクルゴスの制)が、実際には何世代もかけて形づくられたものとみられる。
ヘイロタイへの扱いは苛烈だった。プルタルコスがアリストテレスを引いて伝えるところでは、毎年就任する監督官(エフォロイ)は、まずヘイロタイに宣戦を布告した。戦争の相手であれば、殺しても穢れにならないからだという。若者が夜にひそかに出て、目立つヘイロタイを殺す習わしがあったとも伝わる。どこまで実際に行われたかは議論があるが、スパルタ人がヘイロタイを内なる敵と見ていたことは確かだ。
この構図は、スパルタの外交にも影を落とした。紀元前464年の大地震のあと、ヘイロタイはふたたびイトメ山にこもって大反乱を起こした。軍を長く遠くへ出すことを嫌い、国の外の争いに慎重だったスパルタの性格は、足元の反乱への恐れと切り離せない。テルモピュライの戦いのような勇名も、ペロポネソス戦争での勝利も、この不安定な土台の上にあった。

終わりは征服から350年以上のちに来る。紀元前371年のレウクトラの戦いでスパルタを破ったテーバイのエパメイノンダスは、翌々年メッセニアに入り、イトメ山のふもとに新しい町メッセネを築かせて、ヘイロタイを解放した。働き手と土地の多くを一度に失ったスパルタは、二度と大国には戻れなかった。スパルタの強さを作ったのも、その強さを終わらせたのも、メッセニアだった。