ドーリア人の移動
概要
ミケーネの宮殿が焼けたあと、北からギリシア語の別の方言を話す人々が来た、とギリシア人は伝えた。「ヘラクレスの子孫の帰還」。スパルタとクレタとロドス。本当に移動があったかは、いまも決着していない。暗黒時代の始まり。
場所
37.08°N 22.43°E · ギリシア・ラコニア
本文
紀元前1200年ごろ、ギリシア本土のミケーネ文明の宮殿が、次々に焼け落ちた。ピュロス、ミケーネ、ティリンス、テーバイ。宮殿で税と物資の出入りを記録していた線文字Bは使われなくなり、ギリシアは400年ほど、文字の無い時代に入った(海の民の侵入と青銅器時代の終わり)。人口は減り、遠くとの交易は細り、大きな建物は造られなくなった。この時代は、のちに「暗黒時代」と呼ばれる。
古代のギリシア人は、この激変を、自分たちの神話で説明していた。英雄ヘラクレスの子孫たちは、ペロポネソス半島の王位を追われたが、北の山地に住むドーリス人と手を組み、三世代のちに半島へ帰ってきた。テメノスはアルゴスを、クレスフォンテスはメッセニアを、アリストデモスの息子たちはラコニアを、くじで分け合った。これが「ヘラクレスの子孫の帰還」の物語である。歴史家トゥキュディデスは、ドーリス人がヘラクレスの子孫とともにペロポネソスを手に入れたのは、トロイアの陥落から80年後のことだと書いた(トロイア戦争(伝承))。のちの学者は、トロイアの陥落を紀元前1184年ごろとし、帰還を紀元前1100年ごろとした。

伝承の裏づけとされたのは、言葉の分布だった。古代のギリシア語には、いくつもの方言があった。ドーリス方言は、ペロポネソスの大部分、クレタ、ロドスなどの南の島々、そして彼らが植民した南イタリアやシチリアで話された。イオニア方言はアッティカ、エウボイア、小アジアの中部で、アイオリス方言はテッサリアやボイオティア、レスボス島で話された。ミケーネ時代の言葉に近い方言は、山奥のアルカディアと遠いキプロス島に、取り残されたように残っていた。北西から来た新しい人々が、古い住民を山奥と海の向こうへ押しやった。そう考えると、地図はうまく説明できた。ドーリス人の国々は、三つの部族の名を共通して持ち、同じ祭りを祝っていた。
19世紀、ドイツの古典学者カール・オトフリート・ミュラーは、ドーリス人を、北から来た質実で武勇に優れた民族として描いた。その姿は、北方の民族の優秀さを説く考えと結びつき、20世紀にはナチ・ドイツが、スパルタを自分たちの祖先の理想の国として讃えた。ドーリス人が鉄の剣を持って南下し、青銅の武器しか持たないミケーネ人を打ち破った、という説明も広く語られた。

だが20世紀の後半、考古学はこの筋書きに疑問を突きつけた。宮殿が焼けた後の地層に、北から来た新しい人々の跡、たとえば新しい形の土器や墓や家が、はっきりとは見つからないのである。鉄が広まったのは宮殿の崩壊から1世紀以上後のことだった(鉄が広まる)。1952年に線文字Bが解読され(線文字Bの解読)、ミケーネの人々がすでにギリシア語を話していたことが分かると、議論はさらに複雑になった。
いま有力なのは、ミケーネの崩壊は外からの侵入だけで起きたのではない、という見方である。地震、干魃、交易網の断絶、宮殿の重い取り立てへの反発、そして地中海の各地を揺るがした海の民の動き。いくつもの打撃が重なって、宮殿を中心にした仕組みそのものが壊れたと考えられている。ドーリス方言を話す人々は、もとから宮殿の支配の下層や周辺の山地にいて、宮殿が消えたあとに表に出てきた、とする説もある。小さな集団の移動が長い時間をかけて続いたことは、多くの学者が認めているが、伝承が語るような一度の大移動があったかどうかは、いまも決着していない。

スパルタは、この物語を自らの由来とした。スパルタには二つの王家、アギス家とエウリュポン家が並び立ち、どちらもヘラクレスの子孫を名乗った(リュクルゴスの制)。スパルタの市民は、隷属させた農民ヘイロタイの上に立って暮らしたが、それは征服した先住民を従えた結果だと説明された。一方、アテナイの人々は、自分たちはどこからも来ていない、この土地から生まれた民だと誇った。紀元前5世紀のペロポネソス戦争では、この対立が、ドーリス人のスパルタとイオニア人のアテナイの戦いとして語られた。700年前の出来事の記憶は、真偽とは別に、ギリシア人の自己像と政治の言葉を形作り続けたのである。