テルモピュライの戦い

概要
レオニダス率いる寡兵が隘路でペルシアの大軍を数日食い止め、全滅した。
場所
38.80°N 22.54°E · ギリシア・フティオティダ
関わった人(2)
レオニダス1世BC540年頃–BC480年 · ギリシア側 · 総指揮クセルクセス1世BC518年頃–BC465年 · ペルシア側 · 総指揮本文
紀元前490年、ペルシアの遠征軍はアテネ北東のマラトンの戦いで敗れた。王ダレイオス1世は再び兵を出す準備を進めたが、果たせずに死んだ。後を継いだクセルクセス1世は、父をはるかに上回る規模の軍を集め、紀元前480年、自ら率いてギリシアに向かった。ヘレスポントス海峡に船を並べて橋を架け、陸軍と艦隊が並んで南下した。
ヘロドトスは、この陸軍を170万人と書いている。補給の人員を含めると500万を超える数字になる。そのまま信じる研究者はおらず、現代の推計は10万から30万前後まで幅がある。それでも、ギリシアの諸ポリスが集められる兵とは桁が違ったことは確かだ。
ギリシア側は、中部ギリシアに入る狭い道で敵を食い止めることにした。それがテルモピュライで、「熱い門」を意味する。山が海に迫り、道幅が狭いところでは荷車がすれ違えるほどしかなかったと、ヘロドトスは書いている。数の差が生きない場所だった。沖合のアルテミシオンでは、アテネを中心とする艦隊が同時にペルシア艦隊を迎え撃った。
ペルシア艦隊はこの直前、ギリシア北部の沿岸で嵐に遭い、多くの船を失ったとされる。アルテミシオンの海戦は陸の戦いと同じ日々に3日間続き、決着はつかなかった。テルモピュライが破られたと知ると、ギリシア艦隊も南へ退いた。陸と海の二つの守りは、一組の作戦だったのである。

陸の守りを率いたのはスパルタ王レオニダス1世だった。連れてきたスパルタ人の重装歩兵は300人。ちょうど宗教的な祭りの時期にあたり、本隊は後から来るはずだった。ほかのポリスの兵を合わせ、ギリシア軍は全部で7000人ほどだったとされる。
ヘロドトスは、レオニダスが連れていく300人を、すでに息子のいる者から選んだと書いている。家が絶えないようにするためだったと解されている。また、戦争の前にスパルタが受けたデルフォイの神託は、王が死ぬか、国が滅ぶかのどちらかだと告げていたという。スパルタの市民は幼いころから共同の訓練を受け、生涯を戦士として過ごした。300人のほかに、スパルタが支配するヘイロータイと呼ばれる隷属民も従軍していたとされる。

ペルシア軍は到着してから4日待ち、5日目に攻撃を始めた。狭い道で、長い槍と大きな盾を持つギリシアの重装歩兵は、正面から来る敵を次々に退けた。王の親衛隊である「不死隊」も突破できなかった。戦いの前、偵察に来たペルシアの騎兵は、スパルタ兵たちが体を鍛え、長い髪をくしけずっているのを見て驚いたと、ヘロドトスは書く。それは死を覚悟して戦いに臨むときのスパルタ人の習わしだと、クセルクセスは教えられたという。ヘロドトスは、矢が太陽を隠すほど多いと聞いたスパルタ兵ディエネケスが「それなら日陰で戦える」と答えたと伝えている。
戦いの3日目までに、事態は変わった。地元の男エフィアルテスが、山を越えてギリシア軍の背後に出る道をクセルクセスに教えたのだ。夜のうちに不死隊がその道を進み、見張りのフォキス兵を退けた。包囲されると知ったレオニダスは、大半の軍を退かせた。残ったのはスパルタ兵300と、自ら残ることを選んだテスピアイ兵700、そしてテーバイ兵だった。ヘロドトスによれば、テーバイ兵は最後に降伏したという。

残った兵は前に出て戦い、レオニダスも倒れた。王の遺体をめぐって激しい争いがあり、最後の兵は小高い丘で、槍が折れると剣で、剣を失うと素手で戦ったと伝えられる。クセルクセスはレオニダスの首を晒させたとヘロドトスは書く。エフィアルテスの名は、いまもギリシア語で裏切り者を意味する言葉として使われている。
戦死者のために碑が建てられた。「旅人よ、ラケダイモンの人々に伝えよ。我らはその言いつけに従い、ここに眠ると」。詩人シモニデスの作と伝えられる。降伏を迫られたレオニダスが「来て取れ」と答えたという話も有名だが、これはずっと後のプルタルコスが伝える逸話である。
テルモピュライを抜けたペルシア軍は、アテネに入って町を焼いた。アテネの市民はすでにサラミス島などへ逃れていた。その年の9月、ギリシア艦隊は狭い海峡でサラミスの海戦に勝ち、クセルクセスはアジアへ引き返した。残されたペルシア陸軍も、翌年のプラタイアの戦いで敗れた。

テルモピュライは軍事的には負け戦だった。数日の時間を稼いだことが、その後の勝利にどれだけ効いたかは議論がある。それでもこの戦いは、ヘロドトス『歴史』を通じて、自由のために死を選んだ人々の物語として語り継がれてきた。19世紀以降は国民国家の英雄物語として、ときに戦意を高める宣伝として使われてもきた。いまのテルモピュライは、川が運んだ土砂で海岸線が数キロ遠のき、当時の狭い道の面影は少ない。そのそばにはレオニダスの像が立ち、多くの人が訪れている。負けた戦いが、これほど長く語られる例は少ない。