人物

ペリクレス

Pericles
BC495年頃 – BC429年(享年66・推定)
アテナイ重要度 5

概要

アテナイ民主政の全盛期を導き、パルテノン神殿を建てた。ペロポネソス戦争の初期に疫病で没する。

所属

アテナイ

関わったできごと(2)

パルテノン神殿の完成BC432年 · 主導ペロポネソス戦争BC431年 · アテナイ側 · 指導

本文

紀元前495年頃、アテナイに生まれた。生年には前後5年ほどの幅がある。父クサンティッポスはペルシア戦争で艦隊を率いて勝った将軍で、母アガリステは、アテナイの民主政の基を作ったクレイステネスの姪にあたる名門の出だった。父は一時、陶片追放で国外へ追われている。

ペリクレスの胸像(ピオ・クレメンティーノ美術館)
ペリクレスの胸像(ピオ・クレメンティーノ美術館)Wikimedia Commons Copy of Kresilas · Public domain

頭の形が縦に長かったため、喜劇作家たちは「玉ねぎ頭」とからかった。残る胸像がどれも兜をかぶっているのは、それを隠すためだったとプルタルコスは伝える。若い頃は、音楽家ダモンや、自然哲学者アナクサゴラスに学んだ。物事の原因を理屈で考える哲学者の影響で、迷信にとらわれず、日食に兵が怯えたときにも落ち着いて説明したという話がある。

紀元前472年、20代のペリクレスは、劇作家アイスキュロスの悲劇『ペルシア人』の上演の費用を負担している(アイスキュロス『ペルシア人』)。サラミスの海戦の勝利を描いた劇だった。

サラミスの海戦に関わる図版:Battle of salamis
サラミスの海戦Wikimedia Commons The Department of History, United States Military Academy · Public domain

政治の舞台には、民衆の側に立って登場した。紀元前462年頃、盟友エフィアルテスとともに、貴族の長老たちの会議であるアレオパゴスから権限を取り上げ、民会と民衆裁判所に移した。エフィアルテスはまもなく暗殺され、ペリクレスがその後を担う。対立していた保守派の指導者キモンは陶片追放にされた。

裁判の陪審員や役人に日当を払う制度を作ったのは、ペリクレスだとされる。貧しい市民でも、仕事を休んで政治に加われるようにするためだった。一方、紀元前451年には、両親ともアテナイ市民である者だけを市民とする法を通している。民主政の担い手は広がったが、その外に置かれる者の線も引かれた。

ペリクレスの葬儀演説(フィリップ・フォルツ画)
ペリクレスの葬儀演説(フィリップ・フォルツ画)Wikimedia Commons Philipp Foltz · Public domain

役職としては、毎年選挙で選ばれる将軍の一人にすぎなかった。だが紀元前443年からは15年続けて選ばれ、実際にはアテナイを導く第一人者になった。歴史家トゥキュディデスは、名目は民主政だったが、実際には第一の市民による支配だった、と書いている。

アテナイ民主政の全盛期を導き、パルテノン神殿を建てた。ペルシアに備えてエーゲ海の諸都市が結んだデロス同盟の結成の金庫は、紀元前454年にデロス島からアテナイへ移されていた。ペリクレスは、ペルシアとの戦いが一段落した後も同盟の貢納金を集め続け、その金でアクロポリスを飾った。紀元前447年に着工したパルテノン神殿の完成は、彫刻家フェイディアスが全体を監督し、紀元前432年に完成する。アクロポリスの入口の門や、音楽堂も建てられた。

ロレンス・アルマ=タデマ画『フェイディアスがパルテノンの装飾浮彫を見せる』(1868年)
ロレンス・アルマ=タデマ画『フェイディアスがパルテノンの装飾浮彫を見せる』(1868年)Wikimedia Commons Lawrence Alma-Tadema · Public domain

政敵たちは、同盟の金をアテナイの飾りに使うのは、着飾った女のように町を宝石で飾るのと同じだと非難した。ペリクレスは、アテナイが同盟国を守っている限り、金の使い道を説明する必要はないと答えたとプルタルコスは伝える。大工事は多くの市民に仕事を与えた。同盟は次第にアテナイの帝国の様相を帯び、離脱しようとした国は武力で抑えられた。

私生活では、最初の妻と別れたあと、小アジアのミレトス出身の女性アスパシアと暮らした。市民ではない外国人で、教養が高く、ペリクレスの家には哲学者や芸術家が集まった。政敵たちはアスパシアを攻撃し、ペリクレスの友人のフェイディアスやアナクサゴラスも、横領や不敬の罪で訴えられた。どこまでが史実かは、後世の伝記に頼るため確かではない。

クレシラスの原作に基づくペリクレス胸像(ベルリン、アルテス美術館)
クレシラスの原作に基づくペリクレス胸像(ベルリン、アルテス美術館)Wikimedia Commons Copy after Cresilas · Public domain

落ち着いた人柄を伝える逸話もある。ある男が一日中ペリクレスを罵りながら付きまとい、日が暮れても家の前まで付いてきた。ペリクレスは召使いに松明を持たせ、男を家まで送らせたという。

紀元前431年、スパルタとのペロポネソス戦争が始まった。ペリクレスの作戦は、陸ではスパルタと戦わず、田園の住民を城壁の内側に入れて籠もり、海軍で敵の沿岸を襲う、というものだった。アテナイと港ピレウスは長い城壁で結ばれており、海から食糧を運び込めた。

ペリクレスの伴侶アスパシアの胸像
ペリクレスの伴侶アスパシアの胸像Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

その年の冬、戦死者を葬る国の儀式で、ペリクレスは演説をした。トゥキュディデスが書き残したこの葬送演説で、ペリクレスは、アテナイの国の仕組みは少数ではなく多数のためにあり、家柄ではなく能力で人を選ぶ、と語り、アテナイ全体がギリシアの学校だ、とたたえた。言葉どおりの記録ではなく、歴史家が趣旨をまとめ直したものとされる。

翌年、籠城で人があふれた市内に疫病が広がった(アテナイの疫病)。人口の4分の1から3分の1が死んだと推計される。ペリクレスの作戦が災いを招いたと民衆は怒り、彼は将軍の職を解かれ、罰金を科された。二人の息子も疫病で死んだ。翌年、再び将軍に選ばれたが、紀元前429年の秋、自らも疫病に倒れて死んだ。60代半ばだった。

アテナイの疫病に関わる図版:Plague in an Ancient City LACMA AC1997.10.1 (1 of 2)
アテナイの疫病Wikimedia Commons Michiel Sweerts · Public domain

ペロポネソス戦争の初期に疫病で没する。その後のアテナイは、民衆を煽る政治家たちに引きずられ、無謀な遠征に乗り出し、27年続いた戦争の末にスパルタに降った。トゥキュディデスは、ペリクレスの後継者たちが彼の慎重な方針を捨てたことが敗北の原因だったと見ている。

ペリクレスの時代、アテナイには、悲劇作家のソフォクレス、哲学者のソクラテス、歴史家ヘロドトスらが集まっていた。民主政と帝国、市民の自由と同盟国の従属が、同じ一つの町の中にあった。ペリクレスの名は、その輝きと矛盾の両方を背負っている。

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